豊臣秀吉に職務を更迭されたうえ、悲惨な運命をたどった3人の武将
一部の政治家による政治資金の不適切な処理に伴い、大臣や政務官などを更迭されることが相次いだ。失態により職務を更迭されることは、戦国時代にもあった。豊臣秀吉は、失態を晒した武将を更迭することがたびたびあったので、そのうち3人を取り上げることにしよう。
◎木村吉清(?~1598)
吉清はかつて明智光秀に仕えていたが、光秀の死後は豊臣秀吉に従った。天正18年(1590)に小田原(神奈川県小田原市)の北条氏が滅亡すると、秀吉は引き続き奥州仕置を行った。その直後、吉清は旧大崎・葛西領から約30万石を与えられ、登米城(寺池城とも。宮城県登米市)に本拠を定めた。
奥州には秀吉の刀狩や検地に反対する勢力がおり、また吉清の家臣は領内で濫妨狼藉を働いた。そうした不満が爆発し、ついに葛西大崎一揆が勃発したのである。
吉清は子の清久と一揆勢に対峙したが、とても手に負えなかった。やがて蒲生氏郷の軍勢が応援に駆け付け、一揆は鎮圧されたが、吉清・清久は改易されたのである。改易後、二人は蒲生氏郷に仕え、最終的に秀吉に帰参することになった。
◎大友義統(1558~1605)
文禄2年(1593)、義統(宗麟の子)は平壌城の戦いで明の大軍に囲まれた小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという家臣からの誤報を信じて撤退した。
結果的に義統は味方を見捨てたことになり、秀吉から改易を申し渡されたのである。その後、義統は大名預けとなり、慶長4年(1599)に豊臣家に仕えた。
慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、義統は西軍に味方し、かつての領国の豊後国に攻め込んだ。勝てば豊後国を与えられることになっていたが、黒田如水ら東軍勢に敗れた。
戦後、義統は出羽国の秋田氏に預けられたが、無念の思いを抱きながら慶長10年(1605)に病没したのである。
◎高山右近(1552?~1615)
天正13年(1585)、右近は秀吉から播磨国明石に6万石を与えられた。その2年後、秀吉が伴天連追放令を発布したので、キリシタンだった右近は窮地に立たされた。
右近は秀吉から棄教を迫られたが拒否したので、改易となった。その後の右近は、同じキリシタンの小西行長を頼り、最終的に加賀前田家に庇護された。
秀吉が亡くなり、江戸幕府が開幕すると、ますますキリスト教の弾圧は厳しくなった。慶長19年(1614)、家康によるキリシタンの国外追放令を受け、右近はマニラへ逃亡した。しかし、老齢だった右近には長い船旅は厳しく、翌年1月に病没したのである。
◎まとめ
失態のケースはさまざまであるが、秀吉のような権力者はときに気まぐれで誤解があったのかもしれない。吉清は慣れない地での不幸だったし、義統は勘違いが原因だった。右近の場合は、ほかにキリシタン大名がいたのだから不公平である。そういうことは、今でもあるのかもしれない。