北海道新幹線が通る青函トンネルができたのは33年前
今年3月26日に北海道新幹線の新青森と新函館北斗間の開業に伴い、青函トンネルを新幹線が通ります。
この青函トンネルは、33年前の昭和58年(1983年)1月27日に新幹線規格として作られたものです。
青函トンネル構想は終戦の翌年から
北海道と本州間の人や物の移動が盛んになった明治41年(1908年)以降、連絡船が大動脈としての役割を担ってきました。
しかし、連絡船は気象条件に左右され、ときどき欠航するだけでなく、ときには大きな海難事故が発生しています。このため、青函トンネル構想が生まれ、地質調査が始まったのは、終戦の翌年、昭和21年のことです。
海峡の下を通るという技術的に難しく、多大の費用がかかる青函トンネル構想が大きく推進するきっかけとなったのは、昭和29年9月25日に青函連絡船「洞爺丸」などが台風、のちに洞爺丸台風と名付けられた台風によって沈没するという大惨事が起きたからです。
完成した青函トンネルは、その後、内装工事等が進められ、一番列車(函館側から「はつかり10号」、青森側から「海峡1号」)が使用したのは昭和63年3月13日です。
洞爺丸台風
昭和29年9月26日2時頃に鹿児島県に上陸した台風15号は、時速80~100キロメートルという猛スピードで津軽海峡の西海上に達しています。
函館地方は、26日9時ころは風速が毎秒10メートル前後でしたが、青函連絡船「洞爺丸」の出航時刻、14時40分には20メートルを超える暴風が吹き荒れています。
このため洞爺丸は出港を延期したのですが、17時すぎになると風雨がおさまり、青空まで見えてきたので、洞爺丸は出航準備をし、18時40分に出港しています。この青空は、津軽海峡の東口に発生した低気圧のいたずらで、台風は奥尻島の西海上を北上中でした。
洞爺丸は函館港にいるうちに毎秒40メートルを越す南寄りの風と、7から9メートルの激浪と長時間闘ったものの転覆・沈没し,乗員1314名のうち実に8割の1055名が死亡しています。洞爺丸のほか、日高丸、十勝丸、北見丸、第十一青函丸という4隻の青函連絡船(貨物便)も次々に転覆・沈没し、5隻で1430名が亡くなっています(図1)。
ノーモア洞爺丸
洞爺丸台風の大惨事は、このようなことを二度と繰り返さないためにはどうしたら良いかという国民的な問題となっています。
青函トンネルの他にも、様々な対策が考えられ、実行されています。
その中に、昭和29年末に大阪市の小学生や青年会員を中心とした「ノーモア洞爺丸を願う気象観測用飛行機の募金運動」があります。
この運動は、大阪府此花区の小学生が毎日新聞大阪本社を訪れ、「観測機を作ってください」と280円をとどけたのがきっかけです。
この運動は社会的に大きな反響を呼び、子供たちが寄せてくれたお金が3年半たった33年の春には88万円と、当時としてはかなりの額に達しています。
しかし、台風観測機のためにはほど遠い額です。
このため、運動を後援した毎日新聞社や相談を受けた大阪管区気象台では、早く何かの形で子供達の願いをかなえてやりたいと考え、当時、南海丸の海難で観測の盲点と痛感された紀伊水道の沼島に無線で観測データを送ることができる風向風速計を設置することとしています。
南海丸の海難は、昭和33年1月26日に発達しながら日本海を猛スピードで通過した低気圧による強風で、徳島と和歌山を結ぶ連絡船の「南海丸]が沼島の南西海上で沈没し,死者・行方不明者167名という大きな被害を出した海難のことです(図2)。
観測機には結びつきませんでしたが、多くの人々の善意が、当時としては最新の気象観測施設設置という形で実を結んでいます。
地質調査から42年、工事着工からでも19年という長い年月をかけて完成した青函トンネルは、気象条件に左右されない大動脈を誕生させ、さらに18年間たった今年の3月26日、当初計画にあった新幹線が通ることで、新しい時代に突入します。
図の出典:饒村曜(1993)、続・台風物語、日本気象協会。