海の悪魔、フェリクス・フォン・ルックナーの軌跡
第一次世界大戦のさなか、ドイツの名船長エルンスト・ルックナーは「海の悪魔」として敵を翻弄し続けました。
捕虜生活に追い込まれても、彼は数々の奇策を駆使して脱走を企てます。
その執念と冒険心が、彼と仲間たちを再び自由への航路へと導いていくのです。
世界中を渡り歩いた少年期
エルンスト・フォン・ルックナーが13歳で家を飛び出したのは、単なる「家出」ではありませんでした。
彼の心には、海原の果てに何かもっと大きな冒険が待っているはずだという、妙な確信があったのです。
時は1895年、彼はドイツの貴族の息子です。
代々の騎兵士官の道を行くべき運命にありながら、海に憧れ、胸の奥には自由が広がっていたのかもしれません。
ひっそりと「フェラックス・ルーディッゲ」と名乗り、ハンブルクの港で帆船ニオベ号に乗り込んだ彼は、まだ見ぬ大海原にその身を委ねたのです。
ニオベ号でオーストラリアに辿り着いたのち、彼の転職遍歴が始まります。
洗い物、灯台守、奇術師の助手、ボクサー、さらにはメキシコ軍の歩兵まで。
七つの海を渡り歩くかのごとく様々な職を転々とする中で、彼はずっと「海」という一本の道を見つめていました。
そうして貯めた3800マルクを手に、1903年、ついに祖国に帰国したのです。
帰国後、彼は航海士の学校に入り、そして幼少期の夢であった海軍士官に。
1905年、ついに軍服をまとったルックナーが故郷に戻ると、家族は息子の帰還に歓喜しました。両親は彼を失ったと諦めていたのです。
以後も航海士としての道を歩む彼は、1912年、海軍現役に復帰します。
さらなる冒険の先で、未来の伴侶イルマと出会うのです。
海風の香る人生の中、彼の夢と自由はますます広がっていきます。
ルックナー、ゼーアドラー号に乗り込む
第一次世界大戦が始まるや、ルックナーはドイツの威信をかけた「クロンプリンツ・ヴィルヘルム」に乗り込み、イギリス艦隊と命を賭けてぶつかり合いました。
だが、ユトランド沖海戦の後、ドイツ艦隊は港に籠もるしかなくなり、海上の覇権はイギリスに奪われます。
封鎖の苦しみが国を蝕むなか、ルックナーには奇妙な任務が舞い込んだのです――「仮装巡洋艦で通商破壊をせよ」。
しかし、これは普通の戦艦ではありません。
ルックナーが手にしたのは、捕虜となったアメリカ船「パス・オブ・バルマハ」。
古い帆船を武装し、正体がわからぬよう細心の改造を施します。
砲や機関銃を隠し、捕虜収容所やら特別船室まで備えられたその船は「ゼーアドラー(海の鷲)」と名付けられました。
封鎖を突破するためにルックナーは奇策を講じ、ノルウェー船の航海日誌を盗むなど小細工を重ねるのです。
しかし、その間にも封鎖は厳重となり、船名に悩むルックナーは婚約者の名「イルマ」と偽り航海に出ました。
1916年12月、クリスマスの頃、イギリス艦「アヴェンジャー」に捕捉されるも、正体は暴かれず無事に通過します。
ゼーアドラー号は、風に乗り大洋をゆく幽霊船となりました。
海の悪魔と恐れられた男
1917年初頭、ゼーアドラー号は大西洋において次々と敵船を捕らえては沈め、いつしか「海の悪魔」として恐れられる存在となっていました。
ジブラルタル沖で石炭輸送船グラディス・ロイヤル号を捕まえたルックナーの戦法は、実に大胆で巧妙だったのです。
最初は他国の商船を装い、相手が近づくや否やドイツ軍旗を掲げ、砲撃をちらつかせます。
こうして船を停船させると、乗員をゼーアドラー号に移して船を爆破します。乗員たちには比較的自由を与えつつも、船の前部の弾薬庫には近づかないように命じました。
ルックナーの計略は続きます。ブラジルと西アフリカを結ぶ航路上でシャルル・グノー号、さらに砂糖輸送船ランディー・アイランド号を相次いで沈めたのです。
特に忘れがたいのは、偶然出くわしたピンモア号でした。
若き日のルックナーが水夫として荒波を超えた思い出の船であり、過去の艱難辛苦を思い出しながら一人船内を巡り歩いた末に、静かに爆破して別れを告げたのです。
その後もゼーアドラー号の捕虜数は増え続け、ついには乗員が300人を超える事態に陥ったものの、ルックナーは捕虜にまで細やかな気配りを見せたのです。
あるときにはフランス船カンブローヌ号を捕獲し、その船に捕虜を乗せて帰路を進ませることにしました。
その際、収容能力を超えた捕虜たちにはシャンパンや絵画などを餞別に持たせ、ルックナーは彼らに本国までの無事を祈ったのです。
だが、ゼーアドラー号の冒険は続きます。
強大なイギリス艦ホーンガース号と遭遇すると、今度は偽装戦術を駆使することにしました。
ルックナーは船員を女装させて「火災発生」の演技をさせ、ホーンガース号が接近したその瞬間、ドイツ軍旗を掲げて威嚇砲撃します。
無線室への正確な砲撃で通信手段を絶ち、船員たちを恐怖に陥れました。
ルックナーが「魚雷発射準備!」と叫ぶ声を響かせると、敵は完全に降伏したのです。
戦利品にはシャンパン2300箱、コニャック500箱、さらには高価な家具や楽器までもが含まれており、まさに彼の戦果の中でも一際輝かしいものでした。
この独特の手法と奇策の数々は、ゼーアドラー号を「海の悪魔」として名高くしただけでなく、ルックナーを稀代の海上戦術家として歴史に残すこととなったのです。
舞台は太平洋へ
ゼーアドラー号が太平洋に達した頃、その存在はすでにイギリス軍の知るところとなっていました。
ルックナーの船を追うべくホーン岬周辺には艦隊が待ち構えていたものの、ゼーアドラー号は巧みに敵の網をすり抜け、雷雨の中を進んで姿を消したのです。
さらに、あえて救命ボートにゼーアドラー号の名前を記して海に流し、イギリス艦に拾わせることで「沈没した」と錯覚させ、しばしの自由を得たのです。
やがてアメリカがドイツに宣戦布告し、太平洋でのルックナーの活動はさらに危険を増しました。
彼はクリスマス島近海でアメリカ船を次々に拿捕し沈めたものの、敵艦隊の包囲も厳しくなり、行動が制約され始めます。
補給も尽きかけ、7月にはソシエテ諸島のモペリア環礁に停泊しました。
しかし、8月2日に襲来した津波により、ゼーアドラー号は岩礁に乗り上げて損傷し、ついに航行不能となってしまうのです。
やむを得ずルックナーはこの島での生活を始め、小さな集落を「ゼーアドラーブルク」と名付けました。
だが、ルックナーの冒険心は尽きませんでした。
彼は「クロンプリンツェシン・セシリー号」と名付けた小舟で島を脱出し、クック諸島へ向かいます。
現地の駐在官に怪しまれぬよう次々と国籍を偽り、オランダ系アメリカ人やノルウェー人のふりをしては乗り切ったものの、掠奪すべき船を見つけるには至りませんでした。
仕方なく彼らは次の目標地としてフィジー諸島を定め、過酷な航海へと再び身を投じたのです。
途中のニウエ島で体力を回復し、ついにフィジーのワカヤ島に到着。
無事に港に潜り込むと、停泊中のスクーナー船を乗っ取る算段をつけました。
しかし、密告によって彼の正体が露見。イギリス艦アラム号が現れ、ついにルックナーはあえなく逮捕されたのです。
それでも、海の悪魔としての名声はこの世に強く残り続けることになります。
捕虜となるも、無事生還
捕虜となったルックナーとその部下たちは、フィジーの首都レブカに連行されて牢獄生活を余儀なくされました。
そこで、日本海軍の山路一善少将と面会し、ゼーアドラー号の残りの乗員について詰問されるも、ルックナーはなんとか煙に巻いたのです。
その後、彼と砲術長キルヒアイスはニュージーランドのモツイヒ島収容所に移送されます。
ルックナーはここで脱走を決意し、捕虜仲間とともに綿密な計画を練り上げました。
クリスマスパーティーの準備と称して道具を集め、銃や爆弾、偽造軍服までこしらえ、堂々と収容所所長のモーターボートを盗んで脱出したのです。
しかし12月21日、ニュージーランド海軍に再び捕らえられ、ルックナーの冒険はここで一時中断となります。
彼はさらにオークランドの監獄、リヴァー島、モツイヒ島へと転々と移送され、脱走計画を練り続けるも、休戦協定の報が届いたために計画は白紙に戻りました。
1919年7月、ドイツに帰国したルックナーは英雄として迎えられ、婚約者イルマとの結婚を果たしたのです。
一方、モペリア環礁に残されたクリンク大尉もまた脱出を試みていました。
彼は偶然通りかかったフランス船リュティス号を見つけ、すかさず捕虜を下ろしてこの船を奪い、「フォルテュナ号」と名を改めて南アメリカへ向かう壮大な航海に出たのです。
モペリアに残された捕虜もスミス船長を中心にサモアへの脱出を決行し、救援を呼び寄せました。
かくして最後までモペリア環礁に残っていた捕虜たちは、日本海軍の巡洋艦筑摩により無事救出されることとなったのです。
クリンクの航海は、イースター島付近で難破するという波乱の結末を迎えたものの、地元民に救助され、終戦までチリで穏やかに過ごすこととなりました。
そして1920年1月、無事にドイツへ戻った彼はルックナーと再会し、互いの冒険譚を称え合ったといいます。
参考文献
トーマス・ローウェル著・村上啓夫訳(1984)「海の鷲 ゼーアドラー号の冒険」フジ出版社