南朝のエース、楠木正儀の軌跡
南北朝時代は長らくマイナーな時代であったものの、最近注目を集めています。
そんな南朝において八面六臂の大活躍をしたのが、今回紹介する楠木正儀です。
この記事では楠木正儀の軌跡について紹介していきます。
父と兄の遺志を継いだ正儀
楠木正儀――彼は、戦乱に揺れる日本の歴史に登場したひとりの勇将です。
父は伝説的な軍略家、楠木正成。正儀はそんな父の三男として生まれ、後に南朝のため命を懸けたのです。
生年には諸説あり、1330年ごろと見られるものの、彼の年齢を正確に確定するのは難しいです。
彼が南朝の指導者として台頭するまでには、さまざまな悲劇と苦難が彼の前に立ちはだかりました。
まず、兄であり「小楠公」の名を取る正行が、高師直の軍に討たれた四條畷の戦いで命を落としたことです。
彼にとって正行は憧れであり、家の誉れを背負う存在でした。
兄の壮絶な死に衝撃を受けながらも、正儀は次第に楠木家の跡取りとして自覚を持ち始めたのです。
彼の初陣は、その運命的な兄の死から間もない1348年のことです。
家督を継ぎ、わずか数え年で16歳の彼は、和泉国の武士たちを率い、幕府の重臣である高師泰の軍勢と対峙することとなりました。
この戦いは、一進一退の死闘が続き、彼の若さと経験不足が周囲の将兵たちを心配させるものであったのです。
しかし、正儀は父と兄から学んだ戦略を生かし、北朝軍を手こずらせる戦いを繰り広げました。
若き日の正儀にとって、これは武将としての第一歩であり、彼の戦略眼と勇気が証明された瞬間でもあったのです。
それでも戦況は厳しく、彼が守る南朝は吉野行宮を攻められ、ついに南朝の天皇が逃れざるを得なくなる事態にまで追い込まれました。
正儀は撤退戦を展開し、父や兄が死を賭して守った南朝のために、自らを犠牲にしてでも戦う覚悟を固めていたのです。
その後も正儀は、畿内から紀伊に至るまでの南朝の守りを指揮し、さらに幕府側の新世代の武将足利直冬と激しい戦いを繰り広げます。
南朝は大変な劣勢に立たされていたものの、正儀は武士たちの士気を高め、彼らが離反しないように様々な恩賞を配り、必死の抗戦を続けました。
その粘り強い戦いぶりに、多くの人々が楠木家の精神を見出し、心を動かされたに違いないでしょう。
正儀の戦いは、南北朝という分裂した時代において、絶えず続く命のやり取りでした。
いつかその時代が過ぎ去り、彼の名前が歴史に刻まれる日を夢見ていたかは定かではありません。
だが彼は、戦乱の中で父と兄の志を背負い、必死に刃を振るい続けたのです。
波乱を巻き起こした観応の擾乱
観応の擾乱――これは、室町幕府創設の立役者である足利兄弟が分かれて戦った、実に大変な内輪もめです。
端的に言えば、兄の尊氏と弟の直義がそれぞれ違う理想に走り、武将たちを巻き込んだ血みどろの争いです。
事の発端は、尊氏の執事・高師直が、敵将を次々と討ち果たし自信をつけた結果、次第に「俺が偉いんだ!」と言わんばかりに権力を振りかざし始めたことでした。
これに対し、政務担当の直義は黙っているわけにもいかず、ついに彼は、幕府内での尊氏派と直義派の内紛が目に見える形で激化するに至ったのです。
さて、北朝の内紛が加速してきたとき、楠木正儀も思わず策略を練る機会が到来しました。
正儀は南朝の勇将として、ずっと北朝と戦ってきたものの、直義の苦境を知るや、ここぞとばかりに直義を勧誘します。
こうして直義もついに「南朝に寝返る!」と決意したのです。
そのとき、直義が座した城は、皮肉なことに正儀の本拠地にほど近い石川城でした。
なんともまあ、人の心を操るかのごとく絶妙な距離感です。
こうして南朝と手を結んだ直義は、尊氏派と激突し、足利一族の骨肉の争いが幕を開けます。
幕府内では師直が猛威を振るい、直義派を攻め立てたものの、徐々に局勢は直義有利に傾き、ついには師直・師泰兄弟も命を落とすことになるのです。
両派の血で染まった打出浜の戦いで、尊氏は自らの優勢を見失い始めます。
直義も「南朝との和平交渉」に意欲を見せ、ついには和睦のための特使まで京に送り出しました。
だが、この和平交渉はまたも一筋縄にはいきません。
和平を望まぬ強硬派が、南朝側にもどっさりいたからです。
特に「吉野を陥落させろ!」と叫ぶ過激派がいて、和睦に賛成する者たちの頭痛の種でした。
その名も楠木正儀。あれこれ策を巡らせた挙句、ついには正儀が「吉野の道を塞ぐから、早いところ南朝を攻め落としてくれ!」とさえ叫ぶ始末です。
これには南北双方の首脳陣も、「そんなに簡単に終わるものか」と首をかしげたことでしょう。
とはいえ、正儀の願いは叶うことなく、和平交渉も破談に終わり、正儀は悲嘆と怒りを噛みしめました。
だが、戦乱の運命とは皮肉なもので、この南北朝の和平が成り立つのは、まだもう少し先のことでした。
それまで正儀は、策略と戦術を駆使し、再び敵味方を巻き込んで戦い続けたのです。
京都を巡る南朝と北朝の戦い
室町幕府が足利兄弟の内紛で揺れ動く中、南朝はチャンスを見出し、なんと京都への攻撃を敢行することになりました。
ことは正平7年(1352年)のこと。楠木正儀らが南朝軍を引き連れて京に向かい、三種の神器を接収して光厳上皇らも捕らえるという、歴史に残る一大作戦を見事に成し遂げたのです。
南朝軍の京制圧は鮮やかでした。幕府の細川頼春が討たれ、足利義詮も逃亡します。
北朝の後光厳天皇は即位したものの、三種の神器がないという珍事に見舞われ、幕府の威信は大いに揺らぎました。
だが、京の街を掌握するのは簡単ではなく、正儀たちも何か月も戦い続けなければならなかったのです。
京都市街の大混乱の中、八幡や荒坂山の峠で激戦が繰り広げられ、正儀は南朝の威信を賭けて、奮戦しました。
しかし、この戦いが終わったと思ったらまた次の戦が待っていました。
今度は摂津方面への攻勢です。
正儀は八幡を出て摂津の地へと兵を進め、幕府の猛将たちと渡り合いながら、各地を転戦します。
摂津国の志宜杜や渡辺、尼崎といった地名が戦火に包まれ、戦いは日を追うごとに激しさを増したのです。
さらに正平8年(1353年)には、南朝は再び京を目指すことになります。次の京都攻防戦では、天王寺に参集し、再び京の街を奪還しました。
だがこのときも、南朝軍は京都の北方で強力な抵抗に遭い、やがて京を奪還されることになります。
正儀も各地を転々とし、京都を去らざるを得なかったものの、八幡や天王寺での防備を固めて粘り強く戦い続けたのです。
やがて戦局がさらに激化し、正儀は足利直冬らと連携しながら、幾度も京へと攻勢をかけることになります。
しかし、京都は盆地にあり、守るには非常に難しい地形であることが彼らを悩ませました。
奪っては失い、また奪うという激戦を続けるうち、正儀もこの争いが無益だと考え始めます。
盆地の京都を守り抜くのは至難の業であり、供給路が遮断されれば兵站が続かないからです。
それでも、京をめぐる激戦は幾度も繰り返され、最終的には南朝が完全に撤退を決意するまで続くことになります。
和平を模索する正儀
正平22年(1367年)頃、戦いに疲れ果てた南朝と北朝は、何度か頓挫してきた和平への道を再び模索し始めました。
後村上天皇と足利義詮は、少しずつ態度を軟化させ、和平派の重鎮である斯波高経も調停役として登場します。
徐々にだが、険悪な空気に和らぎが見え始めたのです。
南朝側の楠木正儀は、和平への思いを一層強め、後村上天皇の特使として交渉に力を尽くしていました。
1367年4月、勅使として葉室光資が上洛し、ついに和睦の綸旨を義詮に手渡したのです。
しかし、南朝が「北朝の降参」という文言にこだわったことで義詮は激怒し、せっかくの交渉はあっさり破談してしまいます。
正儀は落胆したものの、それでも和平を諦めませんでした。
彼は代官を使者に立てて何度も幕府へ通じ、誠意を見せ続けたのです。
その甲斐もあり、義詮の心も次第に動かされて、事態は一触即発の戦争へとは至りませんでした。
正儀の努力をたたえるかのように、後村上天皇は彼を右兵衛督に任じ、その地位を高めます。
しかし、1368年になると、思いもかけない出来事が続きます。
まず、後村上天皇が崩御し、南朝にとって偉大な後ろ盾を失います。
そして続けざまに、和平に理解のある義詮も亡くなってしまうのです。
この二つの死は南北の和睦にとって致命的な一撃でした。
さらに、後村上天皇の後を継いだ長慶天皇は和平よりも北朝との徹底抗戦を掲げる強硬派だったのです。
強硬論に嫌気がさしていた正儀は、次第に南朝内部で孤立していきます。
新しい君主となった長慶天皇は、和歌や文学の愛好者でもあり、頻繁に和歌会を開き、王権の権威を強調する一方で、戦の準備も怠りませんでした。
その結果、和平に尽力してきた正儀の存在は南朝内で次第に薄まり、南朝に寄り添うのは厳しくなっていくのです。
正儀と長慶天皇――ふたりの間には、望む未来の形があまりに異なっていたのでした。
正儀、北朝へ行く
応安2年(1369年)、楠木正儀はついに北朝への転身を決意しました。
その年の正月、彼は将軍足利義満に会見を願い出る書状を送り、2月には早くも北朝の「応安」の年号を用いた書状を発していました。
戦乱の長期化で疲弊する人々のために和平を志していた正儀ですが、、主戦派の長慶天皇の下ではもはや立場がなかったのです。
果たしてこれが裏切りか、平和への転身か、歴史の解釈はさまざまであるものの、正儀にとっては辛い決断であったに違いありません。
南朝ではこの転身に怒りが噴出しました。とくに正儀の同族である和田正武と橋本正督らが敵対し、河内や和泉で彼を討とうと攻撃を仕掛けたのです。
しかし、室町幕府の細川頼之がすぐさま救援を派遣し、正儀は無事に逃げ延びます。
正儀の能力を高く評価していた頼之は、これを機に正儀を北朝の重臣として厚遇し、広大な河内・和泉の守護職を与えました。
それでも、彼が北朝で全面的な信任を得るには時間がかかったのです。
多くの幕臣は、正儀の帰順をスパイ行為ではないかと疑い、特に管領細川頼之の「和平志向」に対して批判的でした。
頼之はその不信感を打ち消すため、幼将軍義満の前で涙を見せるほど強い覚悟を示し、義満は頼之の信念に動かされてようやく支援を増やしたのです。
正儀はこうして北朝に身を置きつつも、決して南朝との戦闘には積極的に出ようとはしませんでした。
やがて正儀は、南朝の天野行宮を攻め落とすという大功績を挙げ、中務大輔の官職を授与されます。
だが皮肉なことに、この勝利によって南朝からの離反者が相次ぎ、正儀の同族である橋本正督も一時北朝に降ったのち反旗を翻し、ついには北朝内での正儀の信頼を揺るがすことになったのです。
さらに義満が細川頼之に敵意を抱き始め、頼之が失脚すると正儀は北朝内で孤立し、再び厳しい状況に立たされることとなりました。
正儀の一生は、まさに南北朝の激動の象徴といえます。
和平を願いつつ、南北の激流に翻弄され、戦乱の終結を目指して数多の裏切りや疑念と向き合い続けた男の物語でした。
最後まで見届けることができなかった南北朝の和平
南北朝時代も終盤のこと、かつて北朝へ寝返った楠木正儀は、波乱の末に再び南朝に帰参しました。
この決断の影には、彼の後ろ盾だった室町幕府の管領・細川頼之の失脚があり、頼之に代わって守護の畠山基国が河内を治めたことで、正儀は幕府内での立場を完全に失ってしまいます。
とはいえ、彼が南朝へと戻った理由はそれだけではなかったようです。
歴史家林屋辰三郎の推測によれば、南朝内部にもようやく和平派が増えつつあり、正儀にとって自らの理念に再び沿う環境が整い始めていたとのこと。
南朝に戻った正儀に、幕府が黙っているはずもありません。
すぐさま幕府は討伐隊として山名氏清を送り込みました。
正儀は河内の平尾で敗れ、旧居の城に籠城するものの、激しい戦闘の末、戦況は厳しいものだったといいます。
いかに楠木氏の豪傑といえども、この時代の世情に翻弄され続けるのは逃れようがないようです。
帰参後、正儀は南朝から参議に任じられ、南朝側でも有数の地位に上り詰めました。
さらに彼の和平努力は、やがて南朝の君主の交代にまでつながります。
弘和3年(1383年)末、主戦派であった長慶天皇が譲位し、代わって和平派の後亀山天皇が即位するに至ったのです。
正儀の動向が、南朝内部の政治をも動かすほどの影響力を持っていた証といえるでしょう。
晩年、正儀は生涯にわたり南北朝の和平を目指して尽力したものの、統一が実現した「明徳の和約」を目前にして亡くなったと伝えられます。
没年には諸説あるものの、正儀の思想や努力が、その後の和平に向かう機運を確実に築いたことは間違いないでしょう。
平和への道を目指し続けた正儀の足跡が、戦乱の世の終わりをもたらしました。
参考文献
三浦圭一(1997)「楠木正儀」『国史大辞典』吉川弘文館