ハプスブルクの実質的な最後の皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世の軌跡
オーストリア帝国は近代のヨーロッパにおいて、大きな影響を持っていました。
そのオーストリア帝国の実質的な最後の皇帝は、今回紹介するフランツ・ヨーゼフ1世です。
この記事ではフランツ・ヨーゼフ1世の軌跡について紹介していきます。
スパルタ教育を受けてきた皇帝
1830年のオーストリア帝国で生まれたフランツ・ヨーゼフは、その出産がまるで劇のように公開され、誰もが見物できる状況でした。
生まれたばかりの彼は「塩の王子」とも呼ばれ、母ゾフィーの粘り強い祈りと治療の末に生まれた期待の星だったのです。
祖父フランツ1世もこの小さな王子を大層可愛がり、彼に対しても自らと同じ敬礼を求めるほどでした。
代父として洗礼名「フランツ・ヨーゼフ・カール」を授け、まるで未来の皇帝が生まれたとでも言わんばかりの威厳を漂わせたのです。
フランツは幼少の頃から厳しい教育を受け、7歳の頃には1週間で32時間の授業をこなす生活を送りました。
宮廷生活の中で学ぶ科目は多岐にわたり、ドイツ語、フランス語からチェコ語に至るまで、ハプスブルク帝国の多民族国家の運営を意識した内容です。
12歳に至るとその授業時間は50時間にまで膨れ上がり、勉学に疲れ果てる日々。
しかし母ゾフィーはあくまで息子を未来の皇帝として育てるため、彼に厳しい躾を施し、将来を見据えた鍛錬を怠りませんでした。
そして時は1848年、革命の嵐がオーストリアにも押し寄せます。
フランスの影響でウィーンも混乱し、民衆は自由を求めて騒ぎ立てました。
メッテルニヒ宰相が追放される中、フランツは伯父フェルディナント帝とともに民衆の目を逃れてチロルへと避難したのです。
後にイタリア戦線で軍務を経験し、砲火の中でも一歩も退かず冷静さを保つ若きフランツの姿は将軍たちをも感服させました。
このとき彼はまだ若かったものの、その強靭な精神と揺るぎない覚悟は、帝位を担う者としての資質を存分に示したのです。
やがて革命の波が収束し、オーストリア宮廷は再びウィーンへ戻るものの、フランツの若き日々は戦乱と共に過ぎていきます。
彼がその幼い頃から受け継いできた皇帝としての資質が、後の歴史を大きく動かすことになるとは、このときの誰もが知る由もなかったでしょう。
いきなりの強硬策に国民は反発も、徐々に支持を集める
あれは1848年12月2日のこと、オルミュッツにて、まだ若き日のフランツ・ヨーゼフが新たな皇帝として輝かしき第一歩を踏み出した時です。
彼は厳かな玉座の間にて、前皇帝である伯父フェルディナントのもとへ膝をつき、敬虔な祝福を受けたのです。
おお、その時の光景たるや、誰一人として目頭を熱くせずにはいられなかったと言います。
「しっかりおやり、うまくいくさ」と語ったフェルディナント帝の言葉は、あたかも重厚なる運命そのものの響きを宿しておりました。
脇に控えた皇后陛下も若きフランツを胸に抱き寄せ、その若き魂に愛情と信頼の印を残したのです。
さて、このフランツ・ヨーゼフ、後に「1世」と名を冠したのには特別な意味がありました。
時代は革命の嵐が吹き荒れ、自由を求める人々の声が広がりつつあったのです。
彼が「フランツ2世」ではなく、あえて自由主義者に人気のあった神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の名を加えたことは、皇帝の威厳を保ちながらも、時代に対する一種の和解を意図したものでした。
しかし、彼の胸には揺るぎなき信念がありました。
「君主とは神の意志により選ばれし者であり、その統治は人間の作りし憲法に左右されるべきではない」という揺るぎない信条を抱き、神授の権利に則ってオーストリア帝国の未来を拓こうとしていたのです。
新たな皇帝がウィーンに入ったとき、彼は瞬く間に戒厳令を敷き、市民の熱気と共に沸き立つ革命運動の火を封じ込めました。
この強硬策に多くの市民は失望したものの、その一方で平和と安定を望む声も多く聞かれました。
かの「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世もまた、かつては革命側に身を置きながらも、徐々に皇帝派に転じ、彼を讃える楽曲を作り始めたのです。
とはいえ、フランツ・ヨーゼフは当初なかなかその「裏切り」を許すことなく、彼の曲が宮廷舞踏会で流れるまでにはまだ時を要しました。
こうして始まったフランツ・ヨーゼフ1世の治世は、「新絶対主義」と呼ばれる時代へと突入していきます。
一目惚れで選んだ結婚相手
あるとき、宮廷では一大事件が静かに進行していました。
それは、「皇后候補」という名の、熾烈かつ優雅な戦いの幕開けだったのです。
プロイセンから届いた候補者は、どうにも絢爛たる武具を纏った騎士のように堂々としていて、誰もがその威風堂々とした姿に圧倒されていました。
高い鼻梁、澄んだ目元、どこか冷たくも品のある佇まいには、武骨な地味ささえ漂っています。
しかし、あの目には深い謀が宿っているようで、まるで「こちらが選ぶのではない、選ばれるのはそちらだ」とでも言わんばかりです。
一方で、バイエルンからの皇后候補は、まるで春風に乗って舞い降りた花の精そのものでした。
笑顔には陽だまりのような温かみがあり、軽やかなステップで廊下を歩くと、どこからともなく花びらが舞い散るような錯覚さえ覚えます。
その表情は柔和で、まるで周囲の空気まで明るく染めるかのようでした。
宮廷の者たちは、次第にその微笑みの魔力に囚われてゆきます。
だが、ただ穏やかでいるだけではありません。
彼女の瞳には、春風とは違う冷静な決意が宿り、風に揺れる花びらの中にも、強さが垣間見えるのです。
宮廷内で交わされるささやきが日に日に増してゆき、ついには国中が二分されるほどの関心を寄せ始めました。
鋼鉄の如きプロイセンの候補か、それとも柔らかな花びらのバイエルンの候補か。
選ばれる者がどちらであろうと、物語はきっと、ここから始まるのです。
あぁ、運命とはなんと戯れるのが好きなものでしょう。
そもそも、皇帝フランツ・ヨーゼフがバイエルンの公女と見合いをする計画は、母ゾフィーの念入りな手配によって練られておりました。
真夜中の舞踏会に華麗なる一目惚れを期待したゾフィー夫人でしたが、誰が予想できましょうか、その視線の先が「皇帝のお眼鏡に適う」はずの公女はなく、妹のエリーザベトへと釘付けにされてしまうとは!
舞踏会の間じゅう、フランツ・ヨーゼフは終始エリーザベトの傍らに立ち、彼女の言葉に耳を傾けていました。
まさに夢中、目も心も奪われ、もはや母の思惑などどこ吹く風。
「母上、エリーザベトこそ私の運命の人です!」と息子に説かれ、ゾフィーは一瞬困惑したものの、愛に燃える息子の勢いに押される形で、最終的に結婚を認めざるを得ませんでした。
さて、新婚の二人が暮らすラクセンブルク宮殿では、煌びやかな舞台の幕が上がり、祝福の声が絶え間なく続きました。
しかし、フランツ・ヨーゼフが日々の政務に追われ、エリーザベトを気遣う暇もない状況が続きます。
さらに、ゾフィーの厳格な教育方針はエリーザベトにとって重荷となり、日々の宮廷生活は決して一筋縄ではいかなかったのです。
二重帝国の成立
フランツ・ヨーゼフ一世は、その凛々しき姿とは裏腹に、数々の悲哀と混乱の渦に巻き込まれた皇帝でした。
普墺戦争では、オーストリアがプロイセンに痛烈な敗北を喫し、歴史的な地位がぐらつき始めます。
かつてハプスブルクが誇ったドイツ連邦の主導権は、今や冷笑を浮かべるプロイセンに奪われようとしていたのです。
フランツ・ヨーゼフは、プロイセンが率いるビスマルクの煽動に翻弄され、戦意なき戦場へと引きずり出されました。
結局、ケーニヒグレーツの決戦での惨敗により、彼はウィーンにまで迫られ、無念の講和を結ぶこととなります。
この敗北の結果、彼の帝国はイタリアの一部領土をも失い、ハプスブルク家がドイツに対して持っていた威厳は見る影もなく消え去りました。
しかし、フランツ・ヨーゼフも黙ってはいなかったのです。
新たな拠り所を東欧に求め、「ドナウ君主国」という観念を掲げ、帝国の再建を図り始めます。
そして、この試みの一環として、彼はハンガリーとの「アウスグライヒ(妥協)」を成立させ、二重君主国オーストリア=ハンガリー帝国を築き上げました。
東のハンガリーと手を結び、内政権の一部を認めることで、複雑な民族問題に対処しようとしたのです。
とはいえ、フランツ・ヨーゼフの苦難はそれだけでは終わりませんでした。
ウィーンの市長選でユダヤ人排斥を掲げるルエーガーとの対立が激化し、彼を「帝都の市長」として認めることに抵抗し続けたのです。
だが、数年の間に民衆の声は「ルエーガー万歳」と響き渡り、彼はとうとう折れるしかなかったのです。
そして、皇太子ルドルフの自殺や、皇后エリーザベトの暗殺という家族の悲劇が襲います。
フランツ・ヨーゼフは、亡き息子の前にただ立ち尽くし、最愛の皇后を失った時には「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と嘆いたとのこと。
彼の治世は栄光と失意、苦悩と孤独に満ちていました。
それでもなお彼は帝国の重責を担い続け、激動の時代を歩み抜いたのです。
その背中には、帝国を支え続けた男の強さと悲しみが刻まれていました。
戦乱の最中、静かにこの世を去った皇帝
かつて、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフが、広大な帝国を後世にそのまま渡そうと、威厳としぶとさで時代の荒波に立ち向かっていました。
しかし、その老皇帝もまた、波間に揺れる船のごとく、風に翻弄されていったのです。
1908年、フランツ・ヨーゼフはボスニアとヘルツェゴビナの併合を突如宣言しました。
この一手は、オスマン帝国が青年トルコ革命で動揺し、立憲政治を再開した隙を突くものだったのです。
フランツ・ヨーゼフにとって、併合はかつての失われた領土を補填するものであり、名誉回復の象徴でもありました。
しかし、これがヨーロッパ中に波紋を広げ、セルビアなどスラヴ系諸国との関係は悪化し、帝国の内部も揺れ始めたのです。
民族問題や汎スラヴ主義が沸き起こり、彼の長年の努力もむなしく、帝国内は少しずつ亀裂を見せていきます。
さらに、1914年には皇太子フランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺されるという事件が起こり、帝国は一層の困難に直面します。
フランツ・ヨーゼフはその報に「神の報いか」と呟いたものの、帝国の威厳を守るためには、戦争の決意を示さなければなりませんでした。
こうして、セルビアへの宣戦布告に踏み切り、ついに第一次世界大戦の幕が開けます。
彼の心には、「滅びるならばせめて品位を保って」との誇りがあったものの、戦争は帝国に苛烈な試練をもたらしました。
歳老いたフランツ・ヨーゼフは、もはや帝国の実権を握ることなく、戦況報告をただ受け取る日々が続いたのです。
そして、ついに1916年11月のある夜、彼は「仕事が多く残っているのだ」と口にしたのを最後に、静かに永眠しました。
その死からわずか二年後、彼が生涯をかけて守ろうとしたハプスブルク帝国は世界地図から姿を消すこととなります。
老皇帝の幻影とともに消え去ったその帝国は、彼が生涯を賭して守ろうとした「古き秩序」の崩壊を象徴していたのです。
参考文献
江村洋(1994)『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍