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【深掘り「鎌倉殿の13人」】さらば梶原景時!みんなキミのことが大嫌いだったんだ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝の墓。すべては頼朝の死後に動いた。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の28回目では、ついに梶原景時が追い詰められた。この点について、詳しく掘り下げてみよう。

■梶原景時は源頼朝のお気に入り

 梶原景時が台頭するきっかけとなったのは、源頼朝との出会いだった。頼朝は平治の乱で伊豆に流されていたが、治承4年(1180)8月に以仁王の「打倒平家」の令旨を受けて挙兵した。緒戦は伊豆国の目代・山木兼隆を討ち取るなど、幸先は良かった。

 しかし、直後の石橋山の戦いで、頼朝は大庭景親に敗れて逃走した。頼朝が山中に潜んでいると、通りかかったのが大庭方に与していた景時だった。景時は潜んでいる頼朝を発見したが、討ち取ることも、景親に通報することもなく見逃した。

 景時が見逃してくれたので、頼朝は人生最大の危機を脱することができた。同時に景時は、頼朝から全幅の信頼を得ることになった。以後、景時は平家追討に出陣し、大いに軍功を挙げたのである。

■嫌われた景時

 とはいえ、景時には良いイメージがない。残されたエピソードは、景時が嫌われたとしても、いたしかたない話ばかりだからだ。

 寿永2年(1183)12月、謀反の噂があった上総広常は、梶原景時によって誅殺された。景時に殺害を命じたのは、頼朝だったといわれている。景時は、頼朝の「忠実なイヌ」だった。東国の豪族たちも恐れたかもしれない。

 翌年以降、景時は源義経・範頼兄弟らとともに、平家を追討すべく出陣した。景時は詳細にわたり、頼朝に戦況を報告したので、さらに評価が高まったという。

 一方、景時はトラブル・メーカーでもあった。なかでも義経との険悪な関係は、あまりに有名だろう。それは、屋島の戦いにおける「逆櫓論争」(これは誤りとされる)、壇ノ浦の戦いにおける作戦上の対立(義経との先陣争い)である。

 しかも、景時は頼朝に義経の行為について讒言していた。頼朝が義経を討ったのは、景時の讒言が大きく影響したとさえ言われている。

 陥れられたのは、義経だけではなかった。夜須行宗は壇ノ浦の戦いで軍功を挙げたが、景時はこれを無視した。畠山重忠に「謀反の意がある」と告げたのも景時だった(のちに重忠の嫌疑は晴れた)。和田義盛を騙して、侍所別当の職に就いたとの逸話もある。

■まとめ

 建久10年(1199)1月、頼朝が亡くなると、状況は一変した。景時は大きな後ろ盾を失ったのだ。唯一の頼りは後継者の頼家だったが、比企氏や北条氏との暗闘もあり、あてにはできなかった。

 にもかかわらず、景時は結城朝光を陥れようとし、御家人から猛烈な反発を食らった。頼朝が生きている間、彼らは我慢していたが、朝光の事件では結束し、景時を討つことを強く誓ったのだ。連判状はその証でもある。

 つまり、もともと景時は、御家人から蛇蝎のごとく嫌われていたのだろう。頼朝の死と朝光の事件が重なり、御家人らの怒りは大爆発したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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