北方領土問題でロシアが課した「新たなルール」 日本の対応は
異例のブリーフィング
2017年6月15日、在日ロシア大使館と同武官室は、日本メディアなどを招いて異例のブリーフィングを行った。
「異例」というのは、ロシア大使館武官室がこのような会合を開催することが極めて珍しいためである。
武官室に勤務するロシア武官たちはロシア軍の情報機関である参謀本部総局(GU。従来は参謀本部情報総局=GRUと呼ばれていた)に所属する諜報要員であるとみられており、基本的にはメディアの前には姿を現さない。
これまでにも武官が日本のメディアに登場したのは、東日本大震災直後にロシア空軍機が日本周辺を飛行したことに対して釈明を行ったケースなど、かなりの重要事態に限られていた。
これに対して今回のブリーフィングではカメラを招き入れており、日本側に対して重要なメッセージを発しようとしたと考えられる。
では、ロシア側が日本側に発しようとしたメッセージとは何か。
日米ミサイル防衛を懸念するロシア
ロシアの意図を読み解く前に、まずはブリーフィングにおいてロシア側が示してきたものを確認しておきたい。
ブリーフィングで記者団に示された資料は、ロシア語と日本語で「米国の多層的グローバルミサイル防衛:ロシア軍事安全保障及び世界の戦略的安定性に対する脅威」と銘打たれており、米国のミサイル防衛システムがロシアの核抑止力や軍備管理を損なうとする従来のロシア側の立場を繰り返したものであった。
ロシア国防省は2012年に開催したモスクワ国際安全保障会議でもこのようなプレゼンテーションを行っており、それ自体は非常に珍しいというものではない。
また、日本が配備を検討しているTHAAD(終末高高度戦域防衛)ミサイルまたはイージス・アショア(陸上型イージス)が米国のミサイル防衛システムの一部となることへの懸念も表明された。
ロシアはここ数年、従来から反対していた東欧へのミサイル防衛システム配備だけでなく、日米のミサイル防衛協力についても懸念を表明しており(日露防衛・外交トップ会談(2プラス2) その意義と注目点)、これも基本的には従来の姿勢の延長上にあるものと考えられよう。
韓国へのTHAAD配備と北方領土
一方、このブリーフィングでは、ロシアが昨年、北方領土に新型ミサイル(ロシアが北方領土に最新鋭ミサイルを配備 領土交渉への影響は)を配備したのは一方的な軍事力の増強ではなく、米国がミサイル防衛システムTHAADを韓国に配備したことへの対抗措置であったという説明が行われた。
これは6月1日にプーチン大統領がメディアに対して語った路線を踏襲したものである。
この中でプーチン大統領は、北方領土を日本に引き渡した場合には米軍が展開してくる可能性があると指摘した上で、韓国に配備されたTHAADなど米国が東アジアで増強しているミサイル防衛システムに対抗する上で北方領土は極めて有利な位置にあると発言。
北方領土を非軍事化することは不可能ではないが、そのためには地域内の緊張緩和が不可避であるとした。
ロシアのメッセージ
ロシア大使館によるブリーフィングとプーチン大統領の発言を筆者なりに総合するならば、ロシアが打ち出してきたメッセージとは、北方領土問題と東アジアにおける米軍のプレゼンス全体をリンクさせるものであったと言える。
これは、従来の北方領土問題に関するロシアの立場を大きく変えるものだ。
ロシアはこれまでにも、北方領土を返還した場合に米軍基地が設置される可能性や、日米安保の適用範囲内となることへの懸念を表明してきた。
2016年12月に訪日したプーチン大統領が、日本が米国に対して「条約上の義務を負っている」と発言したことは、こうした懸念を婉曲に表明したものと言える。
ただ、今年春頃まではあくまでも日米安保への懸念にとどまっていたのに対し、今回のロシア大使館及びプーチン大統領のメッセージは、東アジア全体における米軍のプレゼンスが縮小しない限り、北方領土返還は安全保障上受け入れがたいというロジックになっている。
これこそがロシア側が日本に伝えようとしたメッセージであろう。
以前の小欄で筆者は、北方領土問題の解決に向けて経済協力だけでなく日露間の信頼醸成を進める必要を主張したが(第2回日露防衛・外交トップ会談(2プラス2) すれ違う思惑と今後と展望)、ロシア側がハードルをここまで上げてくると、問題は日米安保の範囲内には留まらない。
言うなれば、「北方領土交渉に関するゲームのルールが変わった」ということが異例のブリーフィングの真意であったと考えられる。
ロシアの狙いは何か
ロシア側がこのような「ルール」を持ち出してくる前兆はこれまでにもあった。
たとえば、プーチン大統領訪日や今年3月の日露外交防衛閣僚協議(2+2)において、ロシア側は(日本との対話であるにもかかわらず)韓国へのTHAAD配備問題に関する懸念を表明した。
また、プーチン大統領は2016年中、2度にわたって「中露の国境問題解決には40年を費やした」と述べているが、これは領土問題の解決が長期に及ぶことだけでなく、上海協力機構を通じた安全保障上のパートナーである中露のような関係に日露関係が変化しなければ領土返還には応じがたいという姿勢を示唆していたとも考えられる。
もちろん、このような揺さぶりをかけたところで日米同盟を瓦解させられるはずがないことはロシア側も承知のはずである。
したがって、ロシア側の狙いは、北方領土交渉に関する新たな交渉力を得ることであろう。
プーチン大統領訪日を契機として、日露間では経済協力に向けた前進が始まったものの、ロシア側としての最適解は経済協力と領土問題を切り離しておくこと、つまり経済協力が進展してもそれは北方領土返還に向けた前提条件とはなり得ないという構図の提示である。
そのために持ち出されてきたのが、北方領土は東アジアの米軍事プレゼンス全体に対する防衛線であるというロジックであったと考えられる。
もうひとつの側面としては、中国を対日交渉上のカードとして利用することが挙げられる。
安倍政権の対露接近の背景には、北方領土問題解決への意欲に加えて中国への脅威認識が存在することはよく指摘されてきた。
しかし、このような日本側の事情はロシア側もよく理解しており、北方領土問題がTHAAD配備を巡る米中韓の駆け引きともリンクするという構図を作り出せば日本に対する強力な牽制球ということに(ロシア側の論理では)なる。
特にロシアが懸念しているのは、ロシアがあくまでも経済協力と領土問題の分離にこだわる場合、経済協力に関する日本側のインセンティブが低下すること(ロシア版「食い逃げ」論)であろう。
そこで、日露の経済協力が停滞すれば、ロシアが安全保障上、中国へとさらに傾斜する可能性(この場合で言えばTHAAD配備問題に関する中国の強硬姿勢への同調)を日本に対する人質として利用するというのがロシア側の戦略であろう。
日本はどのように臨むか
いずれにしても、ロシア側が切実に必要としている経済協力を行うことで北方領土問題に関する妥協が得られるとの見込みはさらに狭まってきた。
日本側がロシアの論理の呑む必要はないが、領土を実行支配しているのがロシア側である以上、ロシアの投げかけてきた新たな「ルール」にどのように対処するかは今後の対露交渉上の大問題となろう。
ひとつの選択肢と考えられるのは、これを黙殺するというものである。
ここでは技術的詳細には踏み込まないが、韓国のTHAADや日本に配備される日米のミサイル防衛システムがロシアの核抑止力を損なわないことは明らかであり(そもそもロシアはバイカル湖よりも東側に大陸間弾道ミサイルを配備していない)、ロシアの論理に乗って北方領土が東アジアの安全保障全体とリンクしているという構図は受け入れるべきではない。
ただ、前述のように、日本は弱みを握られている側でもある。
その中で、ロシア側が上げてきたハードルをいかにして下げさせるか(あるいはハードルを上げてきた事実そのものをいかにキャンセルするか)が日本に求められる対応と言える。