南部信直が誰よりも早く、豊臣秀吉に急接近した当たり前の理由
過日の報道によると、東北を代表する戦国大名のひとり南部氏の拠点だった聖寿寺館跡(青森県南部町)からサイコロが出土したという。こちら。ところで、南部氏と言えば、信直がいち早く豊臣秀吉に急接近したことで知られているが、その理由について考えてみよう。
天文15年(1546)、信直は石川高信(南部政康の次男)の子として誕生した。永禄8年(1565)、三戸城(青森県三戸町)主の南部晴政に実子がなかったために、家督を継ぐべく養子として迎えられた。、元亀元年(1570)、晴政に実子(晴継)が誕生すると、信直は次第に疎まれるようになった。
天正4年(1576)、晴政は晴継を後継者に定めたが、天正10年(1582)1月に病死した。あとを追うようにして晴継も、直後に亡くなった。そうした事情もあり、信直が南部家の当主の座についたのである。
ところで、当時の東北は伊達政宗を中心にして、新しい秩序が形成されつつあった。一方、中央では天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、羽柴(豊臣)秀吉が権力を掌中に収め、天下統一を成し遂げようとしていた。むろん、信直はこうした現実を無視することはできなかった。
信直は今後の方策を検討し、最終的に豊臣政権に従うことを選択した。もちろん、理由があった。当時、九戸城(岩手県二戸市)主の九戸政実は、信直と敵対関係にあった。政実は公然と自らが南部家の当主と自称し、憚らなかったのでので、信直は対抗手段を考えねばならなかったからである。
信直が政実に対抗するには、中央の強大な権力が必要であるという結論に至った。そこで天正14年(1586)、信直は家臣の北信愛を前田利家のもとに派遣し、秀吉への取り成しを依頼したのである。翌年6月、信直は秀吉と血判起請文を交わすことにより、豊臣政権の一員となった。
その結果、信直は秀吉から豊臣大名と認定され、九戸氏らはその家中と位置付けられた。結論を先取りするようだが、九戸政実は天正19年(1591)に挙兵したが、鎮圧され滅亡したのである。
天正18年(1590)の小田原征伐後、秀吉は奥州仕置を行ったが、信直はその情報を前田利家からいち早く入手することができた。戦国時代はどの勢力に従うかによって、命運が大きく分かれた。信直が秀吉に従ったことは、最良の選択だったのである。