「汁掛け飯」の逸話で知られる北条氏政は、本当に無能な男だったのか
今も昔も、根も葉もない噂話が独り歩きし、大きな誤解を与えることがある。北条氏政もその1人で、北条氏を滅亡に追い込んだ張本人だったこともあり、あたかも無能な男として後世に伝わった。その代表的な逸話が「汁掛け飯」の話であるが、それは真に受けていいのか考えてみよう。
北条氏政は関八州を支配した大名だが、天正18年(1590)における小田原合戦で豊臣秀吉との戦いで敗北を喫し、自害を命じられた。これで戦国大名としての北条氏は滅亡したが、江戸時代以降もその子孫は近世大名として生き残った点に注意すべきだろう。
秀吉が宣戦布告をした際、氏政は対応を協議すべく家臣を集めて小田原評定を催したが、何も決まらなかった。また、戦いの終盤では、降伏するか戦闘を継続すべきかも決まらなかったという。
それゆえ、小田原評定は誰も責任を持って決断せず、いつまでも結論が出ない話し合いや会議の例えとして用いられる。この話は『改正三河後風土記』などの二次史料に書かれたもので、信を置くことはできない。
また食事の際、氏政は2度も飯に汁を掛けたので、父の氏康が「毎日の食事をしているのに、飯に掛ける汁の分量すら量れないとは、北条家もおしまいだ」と嘆いたという。つまり、飯と汁の塩梅を量れない氏政に領国支配ができるはずもなく、無能だと言いたいのである。
もちろん、小田原評定も汁掛け飯の話は後世の創作にすぎないが、氏政を無能なダメ人間として評価する根拠となった。こうした逸話や評価が後世に伝わったのだが、氏政が凡庸な人物と評価したのは、あくまで二次史料の『関八州古戦録』などである。
このほかにも『甲陽軍鑑』には、氏政は収穫した麦がすぐに食べられないことを知らなかったという逸話を載せる。氏政は複数国を支配する大大名だったが、農業や食べ物の知識が乏しかったのである。こちらも裏付けになるほかの史料がないので、創作ではないかと疑われる。
永禄3年(1560)に領内で疫病や飢饉が流行したとき、氏政は徳政(借金の棒引き)を実行して、民のために善政を行った。同じ年には精銭と悪銭の混合比率を7対3に規定するという、貨幣法を改正した。加えて、父祖以来の領土を拡大したのだから、特筆に値する業績だろう。
最終的に氏政は秀吉に敗北を喫したので、評価が著しく低くなった。みっともないエピソードも後世に創作されたが、最後の敗北を除けば、氏政は高く評価されてしかるべき戦国大名だったのではないだろうか。