五輪開催と尾身会長発言 科学と政治の関係をどのように考えるべきか
五輪をめぐる尾身会長の発言
新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長の東京オリンピック・パラリンピックをめぐる発言が物議を醸しています。
尾身会長は6月2日の衆議院厚生労働委員会で、「今の状況で(開催するのは)普通はない」「やるのであれば、規模をできるだけ小さくして管理体制をできるだけ強化するのは主催する人の義務だ」などと述べました。
翌日の参議院厚生労働委員会でも、五輪開催について「(専門家の)考え方を述べるのはわれわれの責任」「しかるべくところに考えを示す」と述べています。これは、「政府にアドバイスしてもIOC(国際オリンピック委員会)には届かないため、どこに述べたらいいか、今検討している」ということのようです。
これらの発言から、現在の感染状況での五輪開催について、専門家として強い懸念を抱いていること、そしておそらくはこれまでも政府に対して助言をしてきたものの、それが聞き入れなれなかったことが推測されます。
発言の余波
こうした一連の発言を受けて、政府は相当に反発していると報道されています。報道では、菅首相は「黙らせろ。専門家の立場を踏み越えて勘違いしている。首相にでもなったつもりなんじゃないか」と激怒したと報じられています。
田村厚労大臣は、尾身会長が提言を準備していることに対し「自主的な研究成果の発表であると受け止める」と述べ、いわば「スルー」するつもりであることを示唆しています。
政府の要職を務め、今も首相のブレーンの1人であると言われている竹中平蔵氏は、「分科会がオリンピックのことを決めるわけじゃないのに、明らかに越権」と批判し、尾身会長の発言だけでなく、これまでの人流抑制策などについても疑問を呈しています。
反発しているのは政府だけではありません。「知識人」と言われる人々のなかにも、尾身会長の発言を批判したり、揶揄したりする発言が見られました。たとえば、茂木健一郎氏は以下のようにツイートしています。
科学を抑圧することの危うさ
そもそも分科会とはどのようなものなのでしょうか。内閣府の資料では、(1)感染動向のモニタリング(2)ワクチン接種のあり方、接種の優先順位(3)新型コロナウイルス感染症対策(検査体制、医療提供体制の強化、保健所機能・サーベイランス等のあり方、市民生活、事業活動における留意事項、リスクコミュニケーションのあり方、研究推進体制や疫学情報共有のあり方)を審議し、総理大臣に対して意見を述べるものとされています。
だとすると、感染状況を踏まえの五輪開催の是非について意見を述べることは、どう考えても「専門家の立場を踏み越えて勘違いしている」とも、「越権」に当たるとも思えません。
また、専門家の助言に対し、あたかもつまみ食いでもするかのように、都合の良いことだけを聞いて、都合の悪いことには聞く耳を持たず「自主的な研究成果の発表」などと軽んじるに至っては、空いた口がふさがりません。
そして、分科会が一貫してわれわれに示してくれているマスク着用、手指消毒、三密回避などの感染予防策は、いわば感染予防のゴールデンスタンダードのようなものです。それがローテクだろうがハイテクだろうが関係ありません。その「効果」を見ずに、見栄えだけで評価するのは見当違いも甚だしいものです。
前回の記事(「効果なしどころか有害、でも『空間除菌』を導入 ニセ科学を信じる心理とは?」)でも述べましたが、素人が感染症の専門家の提言を否定する根拠はどこにあるのでしょうか。
このように、自分の主義主張のために、科学を無視したり捻じ曲げたりする反科学主義、反知性主義が跋扈することは、非常に危険です。
かつてWHOで活躍し、西太平洋地域におけるポリオ根絶を果たした尾身会長は、クメールルージュと交渉し、予防接種のために停戦協定を結んだことがあると言われています。それは、反知性主義の権化のような相手に対し、科学が勝利を収めた瞬間だと言ってよいでしょう。しかし、今の日本政府の態度はどうでしょう。
イギリス権威ある医学誌BMJの編集長は、「COVID-19:政治化、腐敗、科学の抑圧」と題した論説のなかで、科学が政治目的や利権のために抑圧されるとき、公衆衛生が危機に陥って人々の命を奪うことになると警告を発しています。そして、今回のパンデミックでは、科学を守ることがより重要になっていると主張しています。
政府のコロナ対策と科学
政府はこれまで、コロナ対策の重要な局面において、すべてではないにしろ、分科会の意見を尊重してきたように見えました。そもそも、尾身会長を始め、わが国を代表する感染症の専門家を分科会のメンバーとして指名したことだけで、私などはコロナ対策は半分以上成功したようなものだとすら思っていました。
これまで諸外国に比べて日本の感染が比較的抑えられてきたのも、ファクターXなるものの存在よりも、分科会を始めとする専門家の叡智や努力によるところが大きかったといえるかもしれません。
先月、緊急事態宣言の対象地域が拡大されたときも、政府は当初は地域の拡大を見送る方針でしたが、直前になって分科会の意見を酌んで方針転換をしました。
これ以外にも、経済界や国民の反発があるなか、専門家と意見交換しながら、科学的知見を取り入れて政策判断をした局面は何度もあったように思います。
しかし、ことオリンピックとなると手のひらを返したような豹変ぶりに、驚きを禁じ得ません。
一方、野党のほうも、尾身会長を政争の具に利用することは厳に慎むべきです。五輪に関しては、反対・延期の世論が強いにもかかわらず、その世論の力を追い風にできないふがいない野党が、尾身会長を矢面に立たせて政治利用しているように見えるのは私だけでしょうか。
エビデンスに基づく政策立案
科学は政争の道具でも政治の奴隷でもありません。尾身会長の一連の言動は、それを毅然と示してくれているように思えます。
エビデンスに基づく政策立案(Evidence-Based Policy Making)という言葉があります。内閣府のホームページには、以下のように書かれています。
EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング。証拠に基づく政策立案)とは、政策の企画をその場限りのエピソードに頼るのではなく、政策目的を明確化したうえで合理的根拠(エビデンス)に基づくものとすることです。
政策効果の測定に重要な関連を持つ情報や統計等のデータを活用したEBPMの推進は、政策の有効性を高め、国民の行政への信頼確保に資するものです。
政策立案においてまずなすべきことは、科学的エビデンスに導かれた専門家の意見に真摯に耳を傾けることです。それが上に引用したように、国民の信頼確保に資するものだからです。これは医療政策だけでなく、経済、教育、福祉などあらゆる場面で重要なものです。
そして、そのとき自分の意見とは違った見解が出されたとしても、無視したり、感情的に批判したりするのではなく、透明性を確保しつつ冷静に議論すべきです。
EBPMとはまた、科学的エビデンスに盲目的に従うべきだというものではありません。最終決断はもちろん、国民に選ばれた政治家が行うべきものです。その際にはもちろん、国民の意見に耳を傾けることも重要です。今はそのどれもが疎かにされていると言わざるを得ないでしょう。
とはいえ、科学は万能ではありませんし、科学に解決できない難題も山ほどあります。このことについて、アインシュタインはこのように言っています。
現実の世界に比べれば、科学などはごく素朴でたわいのないものでしかない。そ
れでもやはり、われわれがもてるものの中で一番貴重なものなのだ。
これまで経験したことのないパンデミックの危機のさなかにおいて、もう一度この言葉を噛み締めたいと思います。