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『まだ、終わりじゃないから……』

木村公一スポーツライター・作家

~~明るい未来が欲しくて 僕らは今を飛ばして先を見ようとする。

色あせない過去にしがみついてばかり。それでも 今という時は美しいから。~~

(キマグレン『リメンバー』より。)

『野球はこの1年限りと決めて来た』

9月某日、台湾・台南市立棒球場。統一ライオンズの本拠地。試合開始前の6時半が近づいても、掲示板の気温はまだ34度を表している。ジットリとまとわりつく、南国特有の湿気が身体を包む。

「なんか最近、だるいんですよね」

中継ぎ陣の練習を見遣りながら、ウェート・トレの順番を待つ鎌田祐哉(33歳)は呟いた。

「1年の疲れが出てきた感じ。ストレス解消できたらいいんだろうけど、なかなかできないし……」

そしてどんよりと垂れ込めた雲の浮かぶ空に目を移した。

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鎌田はデジモノ好きだ。愛機は2003年頃からHDを交換しながらも使い続けるMacと、ipad。バス移動がほとんどの台湾では、車中、DLした音楽やアニメで時間を過ごしてきた。お気に入りはアニメの『交響詩篇・エウレカセブン』。50話のストーリーをもう3回は観たろうか。スカイプやSNSで、日本の家族や友人と連絡も容易に取れる。とはいえ異国での暮らしは、目に見えぬ、言葉に表しにくいストレスを溜める。

それでなくとも、疲れていても無理はなかった。

今季、初めて海を渡った鎌田の活躍は圧巻だった。開幕から11勝0敗というケタ違いの活躍。当然のごとく統一は、前後期制の台湾で前期ダントツの優勝を勝ち得た。184センチの長身から角度のあるストレートと、鋭く曲がり落ちるスライダーにチェンジアップ。日本時代と投球スタイルに違いはなくとも、それらを丁寧に内外角に配せば、台湾の打者たちを翻弄するに十分だった。7月のオールスターには、ファン投票でトップも飾った。

元楽天で、統一の投手コーチを務める紀藤真琴は言う。「台湾は日本に比べて一段下に見られがちだけれど、11連勝なんて簡単にできるものじゃない。ましてやエース格として先発することは、責任を負って投げるということ。精神的な負担も大きかったはずです」

そして、ローテを1年間通して守ってきたのだ。鎌田は言った。だるさと疲れを振り払うように。

「でもあと少しですから、想いでづくりも」

これまで幾人もの選手が、日本から台湾にやって来た。ある者は1年でも長くユニフォームを着続けたいがために。ある者は成功し、日本球界へ戻るキッカケを求めて。

彼は、そのどちらでもなかった。鎌田は“確かめるため”に、この1年を最後の野球人生と考え、海を渡った。

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『やるならば、集大成のつもりで』

昨季オフ、楽天から自由契約の通告を受けた。前年のシーズン途中にトレードで移籍していたが、一度も1軍から声はかからなかった。だから通告にも、大きな驚きはなかった。心の中で覚悟もあった。「これで野球は終わりだ」。鎌田はそう決めた。結婚もしている。第二の人生ってヤツに踏み出す潮時なのだ、と。合同トライアウトも薦める人がいて受けはしたが、どの球団からも連絡はなかった。野球に対する気持ちが、萎えていくのがわかった。

もとより、それはヤクルトにドラフト2位で入団した頃から「クビになったら未練を残さず、野球を辞めよう」と考えていた。解雇されてもどん欲に他チームでの機会を求め、移籍し、渡り歩く者もいる。鎌田には、そうした考えはなかった。「クビということは、通用しないと烙印を押されるようなもの。それでもし他球団から声がかかったとしても、先は知れている」。ポジティブに野球人生を生き抜こうとする猛者たちに、少しだけ羨ましさも感じる。しかし野球をしている時間より、その後の人生の方が長いのだ。ならば、潮時は見誤りたくない。

冷静。堅実。謙虚。どんな言葉が当てはまるかは、わからない。ただ現役時代から、そんな想いを心の隅に置いていた。そのためか、無為な誤解も受けた。「やる気が見えない」。そう一言で断罪されたこともあった。マウンドに行けば燃えるし、いつも、精一杯やっていたつもりだった。なのに。度重なるヒザや肩の故障経験も、鎌田をより慎重な性格にさせただろうか。ただ第二の人生は、必ずしも思ったようには転がらなかった。新たな仕事がすぐに見つかるほど楽観はしていなかったものの、一般社会の現実は、鎌田の想像以上にシビアだった。心を決め、ハローワークにも足を向けた。しかし、仕事はない。解雇通告を受けてから一ヶ月、二ヶ月。「無職」の時間は、33歳の自身を不安にさせるだけだった。

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そんな年明けたある日、ヤクルト時代の先輩から連絡が入った。「台湾のチームのテストを受けられるように頼んだ。行ってこい」

ありがたいと思う反面、萎えた野球の心ともう一度向き合えるのか。自信はなかった。テストを受けられるという光明より、戸惑う気持ちが正直だった。それに、もし合格しても1年でまたクビになったら。それだけ一般社会に入っていくのが遅くなりはしないか。いや、かりに何年プレー出来たとしても、いつかは必ず野球を辞めるときが来るのだ。それが、今なんじゃないか……。

1月半ば、台湾の統一ライオンズの練習に参加した。合格。ただし外国人投手は他にも3人合格していた。つまりは4人のうちの1人。出場登録は3人と聞き、同時に自分は4番目の合格なのだとも知った。「だから日本に戻ってきても、素直に入団を喜べなかった」。

しかし一般職を探せなかった鎌田に、“野球の運”は味方をした。2月のキャンプに正式参加して3月を迎えた頃、他の外国人投手がケガで解雇になったのだ。対照的に鎌田はオープン戦で内容ある登板を示し、開幕時には先発の3番手に“昇格”。

鎌田は思った。「どうせやるなら、日本のプロで11年間やって来たことが間違いでなかったと思えるシーズンにしよう」

いわば自身の集大成としてのマウンドに。鎌田の心から、迷いが消えた。

自身の最初の先発は3月18日、対兄弟エレファンツ。鎌田はこの試合で6回3分の2を投げ無失点で初勝利を挙げると、同24日には興農ブルズ戦で7回無失点で2勝目を得る。そして同30日には兄弟相手に1失点の完投勝利。以後、投げれば抑え、白星が並んでいった。

鎌田の今季の活躍で評価されるべきは、表向きの連勝ばかりではない。ほとんどの先発機会で7イニング以上を投げ、勝ち星がつかずとも試合を作っていた点にある。統一の監督、元日本ハムの中島輝士もこう認める。「長いイニングを任せられたことは大きな意味があった。ベンチも試合の計算が出来る。勿論、中継ぎ陣を休ませることにもなった。数字だけでは計れない貢献もしてくれましたよ」

その積み重ねが、前期だけで無傷の11連勝に繋がった。登板11試合目での10勝は、台湾での開幕からの「最短到達記録」を更新。11連勝は1993年に野中尊制(元日本ハム)が作った9連勝という日本人としての記録をも更新した。

鎌田祐哉という漢字名は、中国語で「LiauTian YoZai」と読む。カタカナにすれば、リャンテェン・ヨウザイという感じか。「子供にもカマタじゃなく、リャンテェン!って呼ばれるようにもなったんです。サイン書くときも、1番に僕のところに走ってきて待ってくれる」。嬉しくないはずはなかった。

台湾で抜群の成果を表し、日本にカムバックしたい……。そんなストーリーを他人が勝手に描くことは簡単だ。しかし、現実の鎌田は違った。11連勝しても、今シーズン限りと決めた想いに変わることはなかった。むしろ好投すればするほど、もう1人の自分が言った。「調子に乗るなよ」「勘違いしちゃいけないぞ」。間違っても“オレ、やれるじゃん”なんて思えない。

なぜだろう。投手にとって、いやプロ野球選手にとって成績は、すべてといっていい。その成績が素晴らしいのに、そんな自分に自信を持てない。

鎌田は思う。「もし二十代だったら、ストレートに野球にしがみつきたいって思えたかも知れない。でも33歳になってしまうと、現実に目がいってしまう」。脳裏には、職探しで困惑した時期の不安がこびりついて離れない。最悪のことを想定して生きていかねばならないという意識も強くなった。生来、自分を抑えるような気質もある。

「それに」と、鎌田は続けた。

「僕、内心、野球に向いてないと思ってるんです。それが、自信を持ち難くさせている一番の理由かも知れない」

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『僕、野球に向いてないんですよ』

例えばスライダーを投じるとする。アウトコースギリギリのところでボールにしたい。しかし、鎌田はそんなときに限って、ボール一個ぶん、中(なか)に入ってしまうのだという。

「プロで生き残る投手って、制球ミスをするにしても、外(そと)に外れるものなんです。それならボールになるだけで済む。でも中に入るということは、甘く入るということ。それではプロじゃ通用しない」

ボール一個ぶんの甘さ。それが日本のプロ野球で11年、ユニフォームを着てきた鎌田の、プロというものの“定義”だった。その精緻さが自らには欠けている。だから、野球には向いていない。「完璧を求めすぎてるかな、と思うときもありました。でも日本で結果を出せなかったということは……」。

鎌田のほろ苦い記憶の中には、いくつかのマウンドがある。ヤクルト時代、ここで抑えていれば、ここで結果を残していれば、次に繋がり、1軍に定着出来ただろうという光景が。

鎌田は、そうした光景を心に抱え、あるいは言い訳したかったことも呑み込み、台湾にやって来た。同じ過ちを繰り返さないために。時を戻すことは出来ない。けれどあのときのマウンドの代わりに、台湾という異国のマウンドで、もう一度、目一杯に腕を振って……。

一度、野球を辞めた。だから野球のなくなった時間の怖さというものを、知っている。

一度、野球を辞めた。だから一試合の重みも、一球の意味も、鎌田は知っている。その結晶が、今季の一試合、一試合に刻まれている。

「実際には打たれた試合も、悔しい投球もありました。でもこの1年、台湾で野球して良かったと思えた。記録を作れたことも喜ばしいし、誇りだし。もし誰かが“それは台湾のことだろ”と言ったとしても、僕は誇りに思う」。

鎌田には好きな曲がいくつもある。なかでも、キマグレンの『リメンバー』の歌詞がお気に入りだ。楽天時代には、出場時のテーマ曲にもしたほどだった。

~~明るい未来が欲しくて、僕らは今を飛ばして先を見ようとする。

色褪せない過去にしがみついてばかり。それでも今という時は美しいから~~

アップテンポな心地よいリズムに、ともすれば聞き過ごしてしまいそうな歌詞。だが、言葉たちは前向きに、確かなものがなんであるかを、訴えている。そしてこの曲は、こう結んでいる。

~~何度くじけたとしても、僕らは精一杯今を生きてゆきます~~

鎌田はいう。「僕はこう解釈しているんです。人は不安な先のことより、過去を美化してしまいがち。でも、今を大切に生るべきなんだって。二度と戻らない、今を」

まるで今季の鎌田を表しているように思えた。

来季、鎌田が再びユニフォームを着ているかどうか、わからない。それは野球という仕事の宿命でもある。鎌田の選択もある。

「でも、どういう形であれ野球というものには携わっていきたいです。それと中国語を話せるようにもなりたい。日本に戻ったら、語学学校にも通いたいと思ってます。外国語に関心を持つなんて、台湾に来なければ思いもつかなかったこと。それも僕には収穫でした」

異国の地が、少しだけ鎌田を変えた。

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鎌田は前後期通算して16勝(7敗)を残し、最多勝のタイトルを獲得した。10月13日からは7戦4勝制の台湾シリーズに臨む。それに勝ち台湾で総合優勝を遂げれば、11月に韓国・釜山でのアジア・シリーズも控えている。そこでは日本一となったチームとも対峙することになる。

だから、まだ終わりじゃない。

まだ、終わりじゃないから……。

それは来年34歳となる彼の人生はもちろん、鎌田祐哉という、投手の人生も。

スポーツライター・作家

獨協大学卒業後、フリーのスポーツライターに。以後、新聞、雑誌に野球企画を中心に寄稿する一方、漫画原作などもてがける。韓国、台湾などのプロ野球もフォローし、WBCなどの国際大会ではスポーツ専門チャンネルでコメンテイターも。でもここでは国内野球はもちろん、他ジャンルのスポーツも記していければと思っています。

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