村井邦彦 アルファミュージックを語る<後編> 赤い鳥と村上“ポンタ”秀一と「翼をください」と
村井邦彦へのインタビュー、<前編>続き<後編>では、村井の代表曲の一曲であり、国民的愛唱歌となった「翼をください」を歌った赤い鳥と、そのメンバーだった名ドラマー・村上“ポンタ”秀一さんについてからスタート。「ALFA MUSIC LIVE」で村井と共に楽しそうに演奏していたポンタさんの姿が印象的だ。
赤い鳥と村上“ポンタ”秀一
――先日亡くなってしまった名ドラマー・村上“ポンタ”秀一さんもこのライヴで赤い鳥のメンバーとして、 楽しそうに演奏しているのが印象的です。ポンタさんは1972年に赤い鳥に加入していますが、赤い鳥をどんなアーティストに育てようと思っていたのでしょうか。
村井 あまりこうしろ、ああしろと言った記憶がなくて、やりたいようにやりなさいといつも言っていたと思います。赤い鳥の中には二つの流れがありました。後藤悦治郎君の方はフォークに興味があって、伝統的なフォークソング、民謡の中から色々と引っ張り出してきて新しいものを作りたいと考えていました。一方で山本俊彦君の方は、もっと洋楽的な方向でやりたかったのです。確か山本君が、ポンタと大村憲司君を引っ張ってきたのだと思います。赤い鳥はそこから大きく変わりました。ポンタも大村君も個性の強いミュージシャンですからね。「翼をください」のオリジナルバージョンはゆっくりとしたテンポだったけど、ポンタと大村君が入ってからは、早いテンポで演奏されるようになりました。ギターが唸っていて、ポンタは強くて重いリズムで演奏しました。結局赤い鳥は、フォークをやりたい紙ふうせんと、ポップスをやりたいハイ・ファイ・セットに分かれてしまったのです。その時も僕は好きにやりなさいと送り出しました。どちらも成功するのが見えていましたからね。僕が赤い鳥と契約をしようと思ったのは、ヤマハの音楽祭(「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」)で赤い鳥がグランプリ取った直後に、テレビで彼らが歌っているのを観て「これはすごい!」と思ったのがきっかけでした。リズムがしっかりしていて、ピッチもよく、編曲も完成度が高かったです。女性二人の美しい声はさることながら、後藤君が相当高い音で歌っていて、和音の上のほうを歌う三人の声が強くて、聴いていて心地よかったです。ヤマハから連絡があり、本人達はプロにはならないと言っているので、村井さんから説得してくださいと頼まれたので、兵庫県の武庫之荘まで車を飛ばして口説きに行きました。その時はいい返事はもらえなかったのですが、ヤマハのコンテストの優勝記念にロンドンでアルバムを作ることになり、ロンドンで再度説得したらプロになることを決断したのです。
「他にはいない、とにかくビートが重いドラム」
――村井さんはポンタさんのドラムをどんな風に捉えていましたか?
村井 とにかくビートが重くて、それがやっぱり彼の一番の特徴だと思います。なかなかああいう風にはならないんです。松任谷君が教えてくれたのですが、ビートには幅があって、そのドラマーが持っているビートの幅が広ければ広いほど、他のミュージシャンがその中で自由自在に動けて、遊べて、力を発揮しやすくなるらしいのです。ポンタはそんなドラマーだったと思います。あのライヴでも「音楽を信じる」の最後の方に、僕がポンタの方に向かって指を差すと叩き出すところがありますが、あのシーンは何度も観てしまいます。「音楽を信じる」と「翼をください」ではポンタと林立夫の息子の林一樹が、まるで親子のような感じで目配せしながら楽しそうに叩いていて、本当にいいですよね、ああいうシーンは……。ポンタに会ったのはあのライヴが最後になりました。その前は2007年にミシェル・ルグラン&グランド オーケストラがジャパンツアーをやった時、ポンタがドラムを志願したと聞いて、僕はミシェルと友達だったのでリハーサルを観に行ったらポンタが叩いていて、大きな音を出しすぎてミシェルに叱られていました(笑)。同じ年、山本潤子さんがカバーアルバムで、山崎まさよしさんと『翼をください』の新しいバージョンを録るというので、その時も演奏してもらいました。それが一緒にやった最後のレコーディングになりました。 もうその時彼は大御所で、でも僕は赤い鳥時代の彼の印象のままなので、他のミュージシャンやエンジニアが彼の前で緊張しているのを見て、「ええ⁉そんなに偉くなっちゃったの」ってビックリしたことを覚えています(笑)。ユーモアに溢れる人柄で、彼のことを考えるといつも楽しかったことを思い出します。
「吉田俊宏さんとの連載小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』は、自分とアルファの原点を探る旅」
――村井さんは今、音楽サイト「リアルサウンド」で吉田俊宏さんと共著で、小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』を連載していますが、この連載を始めたきっかけを教えてください。
村井 この小説の主人公のモデルになっている川添浩史さんは、アルファでYMOの世界ツアーを担当した川添象郎の父親で、僕が青春時代を過ごした飯倉片町のイタリアン・レストラン・キャンティの創設者です。川添さんは世界中に友人を持つ国際人で、「アヅマカブキ」や「文楽」の海外公演を成功させ、「ウエスト・サイド物語」のブロードウエイ・キャストによる日生劇場の公演などを手掛けたプロデュ―サーでした。僕は大学生の頃、川添さんの使い走りみたいなアルバイトをやったことがあります。その時、川添さんの仕事ぶりを見て、将来は川添さんのように国際文化交流の仕事をしたいと思いました。YMOの世界ツアーは川添さんの「アヅマカブキ」の世界公演にインスパイアされたものだったのです。その川添さんの1930年代のフランス留学時代のことが知りたくて色々調べていたら、かねてから親交のあった日本経済新聞の編集委員、吉田俊宏さんがその時代にパリに留学してル・コルビュジエという近代建築の巨匠の下で働いていた建築家、坂倉準三の大きな記事を書くことになり資料を読み、坂倉さんと川添さんがパリで年中一緒にいた仲間だったということを発見しました。仲間には写真家のロバート・キャパ、画家の岡本太郎など面白い人々が沢山います。それで、吉田さんと相談して、共著で川添さんのフランス時代を描く小説を書くことを構想したのです。僕は今、この小説を書きながら、自分とアルファの原点を探る旅をしているのです。コロナ騒ぎになって音楽の作業がストップして時間ができたこともあって、ゆっくりと遡ってその時代を考え、資料を読んでいます。オンラインでユーミンや細野君と取材を兼ねた対談もしました。
――当時の文化が薫り立ってくるようで、見たことがない風景ですが、その風景がリアルに想像できますよね。
村井 ありがとうございます。それは僕が実際に見たこと、経験してきたことをもとに書いているからだと思います。ある意味僕が川添浩史さんに憑依し、吉田さんが僕に憑依して書いている感覚です。僕が好きな当時の音楽、バレエ、文学、絵画、建築、美術、食べ物、ファッション、自動車などを登場させようと思っています。
――まさにそれぞれの分野を代表する方が夜な夜な集まっていたのが「キャンティ」です。
村井 そうですね。そのキャンティを作った川添浩史さんと息子の象郎が当時ミュージカル『ヘアー』(1969年)を手がけて、そこに小坂忠や細野晴臣がいて、その周りにいたのがユーミンと、偶然がどんどん重なってつながり、それがアルファレコードへと続いています。