知られざる1978年の尖閣諸島危機~幻に終わった「尖閣開発計画」―怠慢と妥協の自民党史~
尖閣諸島での日本領海への中国公船の領海侵犯が日常化する中、中国公船を管轄する海警局の武器使用権限を定めた中国の「海警法」に対抗する形で、日本側でも「仮に尖閣諸島に公船・軍艦等が領海侵犯したら、海上保安庁は危害射撃も可能である」等としたことが連日大きなニュースになっている。
尖閣諸島問題はここにきて一触即発の大危機を迎えたと言える。しかし今から40数年前の1978年前後。福田赳夫内閣、大平正芳(おおひらまさよし)内閣時代に「尖閣諸島危機」があったことをご存じだろうか。一体この時に自民党は危機をどう乗り切ったのだろうか。そして爾来、現在に至るまで、とりわけ領土問題で怠慢と妥協、そして日和見・無関心を続けてきた自民党の歴史を振り返る。
・田中角栄、大平正芳と尖閣諸島問題
尖閣諸島の日本領土編入が決定的となったのは、巨視的には日清戦争にて日本が清朝に勝利したことによるが、そこから一気に太平洋戦争を経て1972年の沖縄返還前後まで、尖閣諸島の領有権を中国と台湾(中華民国)が主張することは無かった。
日本は1952年のサンフランシスコ講和条約で台湾と澎湖列島を放棄することに同意したが、そこに尖閣諸島は含まれておらず、米軍の沖縄統治地域がそのまま返還されると、尖閣諸島も日本に返還された。中国と台湾が尖閣諸島への領有権を主張し始めたのは、ちょうどこの沖縄返還に前後する1970年代初頭である。
当時、日本・中国・台湾は冷戦下にあって極めて重要な問題を抱えていた。それは中国と台湾のどちらを正当な「中国」とするかという所謂「中国承認問題」である。第二次大戦後、中国国民党と中国共産党が内戦(第二次国共内戦)の末、国民党側が敗れ、蒋介石が台湾島に逃れたのは既知のとおりであるが、国際社会は概ねこの時まで台湾の国民党(―中華民国=中国国民党政府。当時日本メディアは”国府”と略した)を唯一の「中国」として認めており、よって国連常任理事国は台湾であり、中国共産党は国連加盟国ですらなかった。
しかし米大統領ニクソンが訪中し、中ソ対立を背景として国際世論が中国共産党を認める風潮が加速すると、主要国は次々と台湾と断交し中国共産党を「中国」として承認した。所謂「ひとつの中国」「中国代表権」問題である。
こうした中、日本でも台湾と断交して中国共産党を「中国」として承認する流れが加速し、1972年にいよいよ日本は台湾と断交して中国と国交を回復した。世に言う日中国交正常化である。この時、日中国交正常化交渉を強力にけん引したのが、時の内閣総理大臣であった田中角栄と、角栄の盟友で田中内閣で外務大臣を務め、後に総理大臣となる宏池会の大平正芳であった。この日中国交正常化の過程で、田中角栄と中国首相・周恩来は、首脳会談の際、尖閣問題で短く言葉を交わしたとされる。
このように、日中国交正常化交渉の際、日中首脳はわずかに尖閣問題に触れたが、むしろ日本の領有権主張に対して中国側が言葉を濁しそれ以上、田中角栄を追求しなかった、という風にも読める。当時中国は文化大革命の真っ最中で国力が疲弊しており、尖閣の領有権は形式的に主張するものの、それより日中国交正常化を急ぎ、西側世界に承認され、日本からの対中投資の呼び水としたいという思惑があった。
・1978年の尖閣諸島危機と大平正芳内閣での「尖閣開発計画」とヘリポート建設
事態が急変したのは、1978年4月のことであった。尖閣諸島沖に100隻に及ぶ中国漁船(中には武装した船も存在していたという)が島を取り囲み、そのうち10隻程度が日本領海を侵犯したのだ。この時、日本はタカ派で知られる清和会の福田赳夫内閣で、宏池会の大平正芳が自民党幹事長であった。すわ自民党内部は紛糾し、「(尖閣に中国側が)上陸したら自衛隊は爆撃できるのか」という強硬論まで飛び出した。
結果としてこの中国漁船の行為は日本側が強く抗議することで収まった。時に日中関係はこの時、国交正常化から約6年を迎え、日中平和友好条約の締結に向けて交渉中であった。結果、1978年8月に福田内閣下で日中平和友好条約が調印され、衆参両院で批准された。
1978年12月、福田赳夫に代わって大平正芳が組閣すると、前年78年の「尖閣諸島危機」を反省として、大平は(旧)沖縄開発庁をして「尖閣諸島利用開発可能性調査」をぶちあげた。1979年度には関連予算として3,565万円が計上され、ほぼ満額が大蔵省から承認された。*「旧・沖縄開発庁の尖閣諸島利用開発可能性調査の経緯」(島嶼研究ジャーナル,2018年3月,藤田宗久,元・旧沖縄開発庁総務局企画課企画専門官)
実際にこの調査活動は同年実行され、海上保安庁の巡視船「そうや」から必要資材が尖閣諸島最大の島・魚釣島にヘリで陸揚げされ、仮設ではあるがヘリポートが建設された。この調査には尖閣諸島の自然体系の実態を調べるため、琉球大学の池原貞雄教授を筆頭とする学術調査団も同行した大規模なものであった。しかしこの日本側の尖閣実効支配を強化する行動は、中国側から強い抗議を受けた。結果、大平内閣ではこれ以上の「尖閣開発調査」は行われず、爾来、尖閣諸島の開発は幻に終わったまま現在を迎えているのである。
・大平正芳はなぜ「尖閣開発計画」を断行したのか
では1979年の大平正芳内閣当時、日本側が「尖閣諸島利用開発可能性調査」を実行できたのはなぜだろうか。大平は自民党の保守本流である宏池会の領袖で、一般的に宏池会はハト派的性格が強いと理解されているのにも関わらずである(―そもそも1972年の日中国交正常化に強固に反対していたのは、福田派=清和会のタカ派的傾向が強い派閥であった)。
巨視的に言えば当時の中国は文化大革命が終了した直後であり、国力が未だ弱かったこと。しかしそれ以上に大平正芳の中国観が影響していたように思えてならない。大平は田中角栄と並んできっての親中国派として知られ、日中国交正常化の功労者として現在でも中国側からの評価は高いものがある。大平は戦前、官僚として中国大陸に赴任し、日本の大陸支配に深く携わっていた。その経験もあってか、大平は戦前から1937年の盧溝橋事件を端緒とする日中全面戦争には懐疑的だったとされる。
大平は自民党保守本流でハト派とされがちな宏池会の領袖ながらも、中国に対しては「硬軟」を巧みに使い分けた。中国との友好関係を護持しつつ、アジア重視の環太平洋協調をぶって、特に資源大国であるオーストラリアとの緊密な連携を模索した。大平は総理大臣就任直前の1977年12月に刊行した自著『風塵雑爼(ふうじんざっそ)』の中で、自身の外交観をこう披歴している。
大平は戦前、自身の中国赴任経験から、日本の中国侵略に対し極めて重い責任を感じていたが、しかし他方では戦後日本を預かる一国の宰相として、あくまで日本がアメリカだけに頼ることなき主体性を発揮する自主外交を唱え、国交を回復した中国に対し、「謝るべきところは真摯に反省し、主張すべきところは主張する」という価値観を貫いたのである。大平は敬虔なクリスチャンとして知られるが、また同時に稀代の教養人で文筆家としても知られる。大平のこうした政治哲学が、「謝るべきところは真摯に反省し、主張すべきところは主張する」という姿勢を生んだのは間違いないであろう。
・継承されなかった自民党の「尖閣開発計画」
大平正芳は、イタリアでのG7(先進国首脳会議)への出席を控えて、過度な外遊による疲労が蓄積する中、1980年5月の衆議院解散(通称・ハプニング解散)に際して日本各地を遊説した。演説中、少しの事で疲労し、控え室で脂汗を流すなど尋常ではない健康状態を鑑み、大平は虎の門病院に緊急入院した。病名は心筋梗塞であったが、一時は回復の兆しを見せたものの6月に入ると容体が急変し、そのまま死去した。享年70歳であった。
現職総理大臣の、しかも選挙中の死去という異常事態にあって、選挙は「弔い合戦」の様相を呈し、自民党はこの時の選挙で圧勝した。大平の急死に伴い、総理大臣は鈴木善幸に引き継がれたが短命に終わり、続いてタカ派で知られる中曽根派の領袖であった中曽根康弘が組閣し、中曽根内閣が1987年11月まで続く長期政権となった。オイルショックを乗り越えた日本経済は、80年代中盤から「バブル景気」に沸き、名実ともに「アメリカに迫る」世界第二位の経済大国の地位を不動のものとすることになる。
大平内閣が実行した束の間の「尖閣開発計画」は、鈴木、中曽根、竹下、宇野、海部、宮澤など80年代から90年代前半までの歴代自民党政権にあって、全くと言ってよいほど継承されず幻に終わった。
実はこれに関しては、日中平和友好条約(1978年)締結の直後、中国副首相(当時)・鄧小平が1978年10月に来日した際、「尖閣の問題は10年、またはそれ以上棚上げしても構わない」とした「尖閣棚上げ」を日本側が暗黙に了解していたとされるが、「棚上げ論」は鄧小平が勝手に発言したもので、日本政府は一貫して「棚上げ論」に合意したわけではないとしている。真相はどうあれ、80年代から90年代前半の自民党政権はバブル景気に浮かれ、「辺境の領土問題」に心血を注ぐという気概を全く喪失していた。
1992年、中国が尖閣諸島を自国領として明示した所謂「領海法」を施行しても、自民党は全く尖閣開発に興味を示さなかった。この時期中国はとっくに、冷戦終結とソ連崩壊という国際秩序の大変動の中、国家方針として海洋進出を着々と準備していたが、自民党は冷戦終結後の新秩序への展望図を持ちえず、「臭いものには蓋を」という極めて消極姿勢によって大平の「尖閣開発計画」を踏襲する内閣は現れず、1994年の細川・非自民連立政権の誕生によって、領土の防衛・保全よりもひたすら政権与党奪還に向かって邁進するようになる。これを怠慢・妥協と言わずして何というのだろうか。
・実行されなかった第二次安倍内閣の「尖閣諸島公務員常駐計画」
尖閣諸島問題が21世紀に入ってから大きく動いたのは、2010年の民主党政権下で尖閣諸島沖で海保艦艇と中国漁船が衝突した事件で中国世論が沸騰したことで、にわかに尖閣危機が再燃したからである。
特に国内情勢が変わったのは2012年の自民党総裁選である。石破茂と事実上の一騎打ちとなった安倍晋三が、総裁選中に「尖閣諸島への公務員常駐等」を発言した。これにより、安倍晋三は保守派、ネット右翼から強烈な支持を得、実際に安倍晋三が自民党総裁になると、来るべき衆議院解散に備え、自民党は党の政策集の中に「尖閣諸島への公務員常駐等」を明記した。だが2012年末の野田政権(民主党)による解散総選挙で自民党が約4年ぶりに政権を奪還すると、「尖閣諸島への公務員常駐等」という発言や記載はなかったことにされた。
2012年末から開始された第二次安倍政権が、保守派、ネット右翼から強烈な支持を得たきっかけは、この「尖閣諸島への公務員常駐等」や「竹島の日式典の政府主催開催」という、領土問題についての毅然とした態度だったが、自民党が政権に舞い戻ると、これは無かったことにされた。
そうこうしているうちに、90年代から目覚ましい経済成長を遂げた中国は、2000年代の後半にGDP換算でドイツと日本を追い抜き、世界第二の経済大国になった。大平正芳の時代、中国は10億人の人口を有しながらまったくの低開発国で、世界経済における影響も、特に海軍力については現在とは比較にならないほど限定的であった。この間、バブル景気に浮かれ、まさに「怠慢・妥協と日和見と無関心」に従って大平の「尖閣開発計画」を引き継がなかった自民党は、中国公船の実力行使という実態に際し、窮地に立たされている。
歴史にもしも、は無いが、大平時代に半ば実行されかけた「尖閣開発計画」を、確固とした信念で1980年代以降の政権が着々と踏襲していれば、中国は依然として尖閣の領有権を主張しただろうが、ここまでの領海侵犯や主権侵害行為はなかったのではないか。
尖閣問題とは、景況に浮かれ、また90年代になるとひたすら政権奪還に拘り、バブルの負の遺産の処理にひたすら奔走し、大平の様な「自主外交」を標榜することなく、アメリカに国土防衛の全てを丸投げして、ひたすら権力という宮殿での王座維持に腐心続けた自民党の怠慢・妥協と日和見・無関心的態度の悪い意味での結晶である。
領土・領海の保全にことさら口角泡を飛ばす日本の保守派やネット右翼が、領土・領海問題でまったくの怠惰であった自民党を未だに支持する傾向が強いのは、戦後の自民党史を俯瞰するに、極めて滑稽な態度であると言わざるを得ない。(了)
*主要参考文献
『大平正芳 理念と外交』(服部龍二、文藝春秋)
『大平正芳「戦後保守」とは何か』(福永文夫,中央公論新社)