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家族や恋人がいるのになんか寂しい。その気持ちの原因とはなにか?

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

村上春樹の小説にはしばしば「なんか寂しい」主人公が登場します。『ノルウェイの森』の主人公には家族がいます(いると思われます)。しかし主人公はつねになんか寂しい。彼女だっています。しかし、彼女が亡くなる前から、主人公はなんか寂しいといtった気持ちを抱えている。

同様に、新海誠監督の「秒速5センチメートル」の主人公も、つねになんか寂しい。家族も彼女もいるのに、なんか寂しい。彼女と今まさに一緒に下校していても、初恋の彼女のことを夢想しているのか、同じスピードで隣を歩く彼女に気持ちが向かない。だから彼女が泣く。見上げる満月が電線によって真っ二つに割れる。

なんか寂しいの原因のひとつは届かなさにあります。Xを求めているがそのXが手に入らない。だからなんか寂しい。Xにはさまざまなものが代入可能です。たとえば、自分の存在理由。自分がなぜこの世に存在しているのか知りたいと思い、さまざまに思考するも、知ることができない。つまりXに届かない。だから茫漠とした寂しさがわが心を満たす。

初恋のあの子がわが心にもたらしたなんらか崇高なものが何なのかを知りたい。しかし、夢日記を書こうと、哲学書を読もうと、宇宙の研究をしようと、その答えが見つからない。つまりXに届かない。だから、つねになんか寂しい。

以上のことを一般化して言うなら、いわゆる知的好奇心が満たされないとき、私たちはなんか寂しいと感じると言えるでしょう。

もちろん、それ以外の原因もあります。プラトンの『饗宴』に「アリストファネスの話」がありますが、それによると、自分の半身に出会えない人はつねになんか寂しいとのことです。自分の半身とは遠いむかしになくした自分です。以下はわたしの解釈ですが、たとえば、祖母がヤンチャな性格だったものの、自分は非ヤンチャに生きている。そういう人はヤンチャな異性を見るたびになんか寂しいと思う(だから、ヤンチャな異性を選択的に選んで交際する)。

同様に、自分より頭のいい異性を好きになる人は、祖父母、曾祖父母のうちの誰かが頭のいい人で、その遺伝子みたいなものが体内にわずかにあるものの、それはほんのわずかなので自分はそこまで頭がよくなく、頭のいい異性に惹かれてしまう。同時に、その異性を見るたびになんか寂しいと思う。ようするに、自分の半身と1つになれない「なれなさ」が茫漠とした寂しさを生む。

哲学は形容詞でするものではないので、なんか寂しいとは何か、という問いを考え抜いた哲学者をわたしは知りません。しかし、たとえばキルケゴール哲学のベースには、彼のなんか寂しいといった気持ちが潜んでいるように思います。(ひとみしょう/哲学者)

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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