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本当にメンタルが強い人はなぜ強い?|気にしないでおこうと思っても気にしてしまう人へ哲学者が贈る言葉

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

いつの頃からか、精神科医が自己啓発的なことを堂々と述べるようになりました。先日は「メンタルが強い人は他人から何かを言われても気にしないから強いのです。自分にとって大切な人の言うことだけに耳を傾けましょう」と、ある精神科医が書いていました。

私はいつも思いますが、「それができれば世話はない」。あなたもそう思わないですか?

というわけで、今回は、哲学の視点から、本当にメンタルが強い人はなぜ強いのかについてお話したいと思います。

「なぜ」を考える人たち

本当にメンタルが強い人はつねに「なぜ」を考えているから強い。哲学の視点からはこういうことが言えるように思います。

たとえばソクラテス。彼はアテナイの青年たちから「ああでもない、こうでもない」と非難を浴びました。そのたびにソクラテスは「なぜそう言うのか」と疑問を投げかけました。非難されたから萎縮したとか、非難されてメンタルを病んだとかではないのですね。「なぜ」と自他に問い続けた。

ではなぜ、そうできたのでしょうか。

判断保留の法則を生きている

これは哲学をする姿勢に通ずる話ですが、ソクラテスは判断を保留にしたのではないでしょうか。

私たちは通常、相手からひどい言葉を投げかけられると「自分に非があるのではないか」と思います。自責的でない人は「相手がおかしいのではないか」と思います。怒りっぽい人は怒ります。それらはすべて、なんらかの事象を善悪で判断した結果です。

その善悪の判断をソクラテスは保留にし、事実を事実としてのみ受け入れ、そのうえで「なぜ」と問うたのではないでしょうか。要するに、善悪の判断を保留にし、事実を事実としてのみ受け入れた。

いかがでしょうか。

ちなみに、ソクラテスは「語りえぬものについては沈黙する」かのごとく、さいごは自殺してしまいます。「ニンジンの毒杯をみずからあおって」死んでしまうのです。その行為の意味、すなわち解釈はさまざま存在しますが、私は誰だってメンタルが強くあり、同時に弱くもあるということが言えるように思います。言葉を使うことを余儀なくされたヒトの1つの限界がそこにあるのだろうと――。(ひとみしょう/哲学者)

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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