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のべ1万人を教えたオンライン家庭教師が明かす「子どもの能力を伸ばす方法」勉強しろと言わずに済む

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

タイトルにある「延べ1万人を教えたオンライン家庭教師」というのは私のことです。すみません。しかしそう書かないとみなさんクリックしませんよね?

ところで私は大人を対象に心理コーチングをしていますが、夜は高校生を対象にオンライン家庭教師をしています。が、私個人の経験をそのまま書いても「再現性」に乏しいかもしれませんので、いつものように、おちこぼれの哲学者として哲学の要素も交えつつ、子どもの能力を伸ばす方法について言及したいと思います。

「本当はどうしたい?」

ひとつには「本当はどうしたいのか」を本人に尋ねることです。もちろん、なんらか明確な目標を持っている生徒に対しても尋ねます。

例えば、模試でA判定を得るために家庭教師を雇った生徒であっても、「本当はどうしたいのか」と尋ねると、例えば学校の授業のレベルが低く、知的好奇心が満たされないから満たしてほしいと言ってきます(言ってきました)。なので、そういう生徒には、例えば古文だと、(大学の)学部レベルの知識を授けたりします。やがて生徒は古文が好きになります。

「本当はこうしたい」という気持ちは、じつは完全に言語化できない気持ちです。キルケゴールはそれを永遠と名付けました。「こうしたい」という「WANT」は感性です。簡単に言えば「快」を感じたい気持ちのことです。他方、「こうすべき」という「べき論」は完全に言語化できるので理性と言えます。感性と理性のいずれにも属さない(属しようのない)気持ちをキルケゴールは、永遠と呼んだのでした。それは本人もなぜそういった気持ちが己の心に宿っているのかよくわからない崇高な気持ちです。

観察する

「本当はどうしたい?」と生徒に尋ねるのと同時に、私たち大人は「この人は本当は何をしたいのだろう」と、絶えず観察する必要があるように思います。

例えば、宿題をやってこなかった生徒に小言を言う先生はごく普通にいますが、生徒はそれなりの事情や思いがあるから宿題をしてこないのです。したがって教員は「なぜやってこなかったのか」を尋ねると同時に、「本当はどうしたいと思っているのか」を洞察する必要があります。

するとやがて、例えば、口では「勉強したい」と言っているけれど、じつは親にやらされているだけだということがわかります。あるいは**大学の△△学部の××学科に進学したいと言いつつも、じつは他の大学(学部・学科)でもいいと思っているというのがわかります。

それがわかれば手の施しようもあれば「手入れ」のしようも生まれます。

未知のものがあることに気づくこと

上記2つのことは、生徒みずからが「未知のものがあることに気づく」ことに向けられます。多くの生徒は「快」を我慢しつつ、大人に言われたとおりにやる「べき」だと思っています。それはともすれば「作業」となり、その必然の結果として、生徒と教員の関係は、作業員とそれを指導するコンサル会社のコーチみたいなくだらない関係に成り下がります。

しかし当たり前のことですが、私たちは年齢を問わず、「まだ知らないことがあるのだ」という謙虚な気持ちを抱いた途端、みずから勉強するようになります。

ちなみに「本当はどうしたい?」と尋ね、かつ洞察することの他に、教員が一生懸命授業する姿を見せることでも、生徒はなんらか未知のものを「感じる」ようです。子どもを「上から目線」で管理したがる大人が多いので、相対的に、「地べたに這いつくばるかのごとく一生懸命やっている大人」を珍しく感じるのかもしれません。

あるいは、教員が楽しそうに授業をしていても、生徒さんは未知のものを感じるようです。「なんでこの先生はこんなに楽しそうにしているのだろう? 英語の何がおもしろいの?」

なんらか未知のものがあると生徒みずからが感じたなら、大人が「勉強しろ」とギャアギャア騒がなくても済むのです。(ひとみしょう/哲学者)

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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