モンスターペアレントのせい? 教師はなぜバカにされるのか
教師は生徒の人間性を育むから偉い。聖職者だ。昭和の時代にはそんなことが言われていたように思います。人間性? まあ、わからなくもありません。朝日新聞社は人間性を育む(とされている)高校野球や吹奏楽を応援し続け、部活による「人間教育」を今でも応援しているようです。
しかし、教師の真の「偉さ」はそこにはないとわたしは思います。教師は生徒の知的好奇心を刺激することによって、生徒の時間を前に推進させる限りにおいて「偉い」のであり、それ以上でもそれ以下でもないと思います。
わたしは中高生を相手にオンライン授業をやっていますが、その物理的目標は「今日やるべきことをやる」です。たとえば、来週定期試験を控えている生徒にとって今日やるべきこととは、定期試験の範囲を理解し、問題演習をとおしてそれを定着させることです。言ってみればそれだけのことです。目の前にある課題に生徒と一緒に取り組んで、どうにか「完成」させる。
しかし、その背後にあるものはきわめて豊饒なものです。
勉強を前に推し進めるには知的好奇心がなければいけません。やる気のない生徒とは、誰からも知的好奇心を刺激された経験のない不幸な人のことです。
知的好奇心とは相互関係です。わたしたちがまなざす前から存在している何かが、わたしたちにまなざすことを促します。その誘いに応じてわたしたちはその何かをまなざします。簡単にいえば、古文の問題文はすでにそこに存在しており、そこに何かよくわからない未知の事物「X」が存在していることをわたしたちは知っています。だから「どうにかしよう」と思い、問題文を読みます。
その「X」がわたしたちにもたらす緊張状態を緩和したいと思うから、わたしたちはおのずと「X」をまなざします。そこによき教員がいれば、「X」が何なのかが明らかになります。つまり「古文が読めた」という結果を得ることができます。よき教員がいなければ「よくわからないや」と思って、古文の勉強を諦めます。
というような「身体運動」に支えられているものが知的好奇心です。
つまり教員とは、身体運動をとおして生徒の時間をおのずから前に推し進める存在なのです。本当は。だから偉いのです。
昨今の教師がバカにされるのは、教師の仕事が「過去」だからです。文科省を頂点とする構造的な問題です。文科省や教育委員会が要求してくる書類作成というのは、過去の整理です。生徒の提出物に点数をつけるのも過去の整理です。つまり、時間を推進するどころか、過去に押し戻している。だから尊敬されないのです。「今」という動きがないから、モンスターペアレンツがつけこんでくるのです。済んだことはいかようにも批判できますし、知力の低い人は知的好奇心を知らないので、済んだことを材に相手を言い負かすことが「偉い」と思っているからです。(ひとみしょう/哲学者)
※メルロー=ポンティ『知覚の現象学2』みすず書房(1974)