[高校野球]あの夏の記憶/中京大中京、薄氷の史上最多7度目V
「もし負けていたら……野球を続けられなかったかもしれません」
法政大に進学していた河合完治(現トヨタ自動車)を取材したとき、真顔でそう話してくれたのが印象に残る。2009年の第91回全国高校野球選手権。決勝は、全国最多・7回目の優勝がかかる中京大中京(愛知)と、新潟県勢初めてのベスト4進出から勝ち上がった日本文理の対戦になった。地力に勝る中京は序盤から優勢に試合を進め、6回には大量6点を奪うなど、9回の守りを迎えて10対4と大量リードだ。
勝利目前。いったんは外野に退いていた堂林翔太(現広島)が再登板を志願し、2死から2点は奪われたが、吉田雅俊はサードに高々とファウルフライ。終わった……とだれもが思った。だが、しかし。「あの日は空が真っ青で、高いフライの距離感がわかりにくかったんです」と告白する河合がボールを見失う。息を吹き返した文理打線は、4点差のここからさらに3点を返し、中京を1点差まで追い詰めるのである。
相手にリードを許すことなく
この大会の、中京大中京。初戦から、相手にリードを許したことは一度もなかった。並ばれたのも、関西学院(兵庫)戦と長野日大戦だけ。そのうち関西学院は、勝利目前の9回に追いつかれるいやなムードだったが、それを救ったのが“3秒ルール”である。大藤敏行監督(当時)は、ふだんからこんなふうに教えていたそうだ。
「タイガー・ウッズは、大事なショットやパットでミスをしたとき、3秒だけ真剣に悔やむ。でも、それをすぎたらミスは頭から完全に消し、次のプレーに備える。野球でもそれをやろう」
ゴルフも野球も、ミスはつきもの。そこからいかに切り換えるかが勝敗のポイントというわけだ。9回に追いつかれたとしても、3秒悔やんだらあとはその時点でできるベストのプレーをするだけ……。それを地で行くように関西学院戦では、9回裏1死から、河合が左中間にサヨナラ本塁打を放っている。
苦い記憶もある。12年ぶりにベスト8に進んだこの年のセンバツ。報徳学園(兵庫)との準々決勝も、9回までを1点リードしていた。だが……2死から堂林が死球を与えたのをきっかけに、まさかの2点適時打を浴びて逆転負け。これが「野球は最後のアウト、最後の1球までわからない」という教訓の実体験となった。
以後の中京大中京。練習の精度が格段に高まった。ポール間を走るのでも、ふつうゴールが見えたら流してしまいがちだが、最後まで全力で走り抜く。キャッチボールの1球も、相手の利き手と逆の胸にピシッと。むろん、結果がすぐについてくるものでもない。4月に堂林が左ヒザを負傷し、2カ月ほど戦列を離れると、「アイツだけじゃない、という意識が空回りしたのか、練習試合でもやりたいことができず、ほとんど勝てなかったんです」(柴田悠介一塁手)。
勇気を失うのはすべてを失う
そこで絶妙に手綱をさばいたのが大藤監督だ。中京では、15年ほど前から椙棟(すぎむね)紀男氏に筋力とメンタルトレーニングの指導を仰いでいる。プロテニスのクルム伊達公子選手らのメンタル面も指導していた腕ききで、定期的に、あるいは大事な大会前に、講義をしてもらう。この09年夏前の講義では、ウィンストン・チャーチルの言葉が引用されたという。
「ものを失うのは、小さなものを失う。信用を失うのは、大きなものを失う。勇気を失うのは、すべてを失う」。
そういう心身の指導により、不安は徐々に解消されていく。象徴的だったのは愛知の準々決勝、愛工大名電戦だ。中京が夏の甲子園から遠ざかった05〜08年のうち、3回愛知代表になっている最大のライバル。できれば、対戦を先延ばしにしたいのが正直なところだろう。だが選手たちは、そのライバルとの激突を、むしろ喜んでいるようだった。
「愛知県は、準々決勝の時点で組み合わせ抽選があるんですが、名電が相手と決まり、電話をかけてきたキャプテンの山中(渉伍)のテンションが、妙に高いんですよ。“先生、名電です!”って……」(大藤監督)
もし、大藤監督がこのチームに手応えを感じたとしたら、このときかもしれない。そして事実、名電との準々決勝を15対0と大勝するなど、圧倒的に愛知を勝ち上がる。その力を甲子園でも存分に見せつけ、優勝まであと1死にこぎ着けている。
ただし、捕れば優勝のファウルフライを河合が見失うと、さすがに3秒ルールの徹底もほころびた。当の河合本人は「申し訳ない。自分のせいで負けるんじゃないかと」思いながら守っていたし、堂林にしても「さすがにあれはちょっと……切り換えられませんでした」と気落ちして森本隼平にマウンドを託している。そこから、日本文理の魂の攻撃に耐えるしかない。さらに四球と2安打で、悠々自適だったはずの6点の貯金から、1点差まで迫られた。そして……一打逆転の2死一、三塁から、若林尚希の強烈なライナーを顔の横でさばいたのが、三塁を守る河合だった。もしあと50センチ弾道が高ければ、確実に河合の横を抜け、同点になっていた打球……。
「いや、考える余裕のない、ライナーだからよかったんです。フライだったら体が硬くなったでしょうし、ゴロを捕ったとしてもまともに投げられたかどうか」
という河合の回想は、冒頭へと続くのだ。かくして、史上唯一の夏3連覇(31〜33年)を達成している超名門が、夏の大会でも史上最多の7度目のV。中京大中京には1931年の夏、初めて全国制覇したときに作られた野球部歌がある(当時中京商)。大会前、その歌詞にこうある。
「勲は高し野球塔 十度(とたび)掲げし中京の 我が名仰げや甲子園」
「十度」の部分は、優勝のたびに一度(ひとたび)から増やしていったもの。09年の夏でセンバツを含めた優勝回数は11回となり、歌詞もそう変わっている。