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【フィギュアスケート】高橋大輔に花束を

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
ソチ五輪で会見に臨んだ高橋大輔と町田樹(撮影:矢内由美子)

羽生結弦が2014年ソチ五輪のフィギュアスケートで金メダルを獲得してからちょうど一年が過ぎた。日本男子初の金字塔だった。一方、この大会が現役選手として最後の公式戦となったのが高橋大輔。フィギュアスケートファンにとって忘れられない一夜の舞台裏を回想する。

2014年2月14日、ソチの夜

ソチ五輪フィギュアスケート会場「アイスバーグ・スケート・パレス」(撮影:矢内由美子)
ソチ五輪フィギュアスケート会場「アイスバーグ・スケート・パレス」(撮影:矢内由美子)

現地時間の2月14日午後7時(日本時間15日午前0時)。ソチ五輪のフィギュアスケート会場「アイスバーグ・スケート・パレス」は闇夜に青白く浮かび上がり、男子シングルの最終決戦となるフリースケーティングの開始を告げていた。

ロシアの皇帝エフゲニー・プルシェンコが前夜にあったショートプログラム(SP)の6分間練習で腰を痛めて棄権したため、急きょ観戦をキャンセルしたのであろう地元ファンの客席が、まばらに空いている。

日本勢は第3グループの6番目で、SP11位と出遅れた町田樹が渾身の「火の鳥」を演じた。冒頭の4回転トゥーループで転倒したもののその後は見事に立て直し、フリーは169・94点。最終グループの6人を残した時点でデニス・テン(カザフスタン)に続く暫定2位につけた。

最終順位はSP9位だったテンが銅メダル、町田は4位。たとえSPで出遅れようが、誰もが最後まで決して諦めず全身全霊を振り絞る姿に、五輪という大舞台に懸けてきたアスリートの心意気がにじみ出ていた。

右足負傷を押して

SP上位6人による最終グループには、SP首位の羽生と同4位の高橋が入っていた。滑走順はハビエル・フェルナンデス(スペイン、SP3位)、高橋、羽生、パトリック・チャン(カナダ、2位)、ペテル・リーバース(ドイツ、5位)、ジェイソン・ブラウン(米国、6位)。五輪前までの戦いぶりやSPの点数からすると、金メダル争いは羽生とチャンの一騎打ちに近い状況であり、また、高橋やフェルナンデスがメダルにどう絡んでいくのかが焦点になるという様相だった。

そんな中、2010年バンクーバー五輪で日本男子フィギュア初のメダルとなる銅メダルに輝き、ソチが3度目の五輪となっていた高橋のコンディションについて気をもむ人は多かった。

ソチ五輪シーズンの前半戦であるGPシリーズでは、初戦のスケートアメリカで4位に終わったものの、NHK杯ではSPで自己ベストを更新するなど劇的な復活を見せて優勝を果たし、悲願であるソチ五輪金メダルへの期待を膨らませた。ところがその後、GPファイナルに向けて調整をしていた11月26日の氷上トレーニング中に、右脛骨骨挫傷の重傷を負った。2008年に手術した右ひざのすぐ近くの箇所。それでもソチ五輪代表に選ばれるには12月の全日本選手権に出ることがノルマとなっていたため無理を押して出場し、どうにか五輪切符をつかんだという状況だった。

フリーの前日にあったSPでは、「ヴァイオリンのためのソナチネ」の音楽に乗り、完璧ではないものの全体をうまくまとめて4位発進し、メダル獲得を射程内とした。とはいえ、骨挫傷してからまだ1カ月半あまり。負傷箇所の状態はもちろん、体全般の状態も案じられるという雰囲気はぬぐえなかった。

「ビートルズ・メドレー」に乗って

しかし、高橋は意地を見せた。すべての決着がつくフリースケーティング。最終グループの2番目に登場した高橋は、「ビートルズ・メドレー」に乗り、しっとりと、そして軽やかに、ときに切なくときに明るく氷上を舞った。

4回転トゥーループは回転不足、3回転アクセル+2回転トゥーループのコンビネーションではアクセルで詰まるなど、ジャンプは完璧ではなかったが、ケガの影響を感じさせない、プライドに溢れる演技だった。ステップやスピンでもさすがというテクニックを披露した。そして、氷上でもキス&クライでも見せた、高橋の数多い魅力の一つである少年の残り香漂う笑顔は実に印象的。無数の日の丸の旗が掲げられたスタンドから多くの花が投げ入れられた。

3番目に演技する羽生と入れ替わってキスクラに座った高橋は、164・27点という点と暫定4位という順位を確認すると、ヒザの上で抱えた大きなクマのぬいぐるみの手を取って振り、ニッコリと笑ってリンクを後にした。

悲喜こもごも…感情が交錯する取材エリア

高橋は14年10月に、町田は14年12月に現役引退を表明した(撮影:矢内由美子)
高橋は14年10月に、町田は14年12月に現役引退を表明した(撮影:矢内由美子)

高橋の次に出て来た羽生の演技が終わるのを見届けると、日本メディアの多くが上階にある記者席を立ち、1階にあるミックスゾーンへと移動した。そろそろ高橋が取材エリアのペン記者ゾーンにやってくるという頃合いだった。

ミックスゾーンの入口に着くと、まずは羽生の得点が178・64点だったことを確認した。冒頭の4回転サルコウで転倒し、3回転フリップでも氷に手をついてしまうなどミスがいくつか出ていたことで、自己ベストの193・41点よりも15点低い得点だ。

SPで羽生と3・93点差で2位につけているチャンの出番は羽生の後。もしもチャンが13年11月のエリック・ボンパール杯で自身が出した196・75点の世界歴代最高点に迫る点を出せば、逆転される可能性がある。

戦況を頭に入れながら細長い通路を奥へ進むと、1人の選手に対して大勢の記者が同時にコメントを聞くことができる、コの字型になっているエリアに、高橋の姿はあった。“大ちゃん担当”の記者やミックスゾーンに張り付いている記者たちがすでに1つ2つ質問をしているようだった。

話の流れを追いながら、10数人ほどの記者陣の間から高橋の表情が分かるポジションを取った。すると、切なくほろ苦い顔が見えてきた。

声はしんみりとしていた。記者陣は高橋の気持ちを慮るかのように、誰もが静かな口調で質問していた。ファンはもちろんのこと、取材陣からも好かれている彼だからこその光景に見えた。気がつけば私の後ろにも大勢の取材陣が詰め掛け、コメントに耳を傾けていた。

高橋は、冒頭の4回転を構成から外す安全策を採ることは考えなかったのかという質問に、「そこは外せない。最後まで希望を捨てずにいきたかった。どうしても1本は決めたいと思っていた」と、バンクーバー五輪後から全力で取り組んできたジャンプへの強い思いをあらためて口にした。負けず嫌いな高橋らしい選択だった。そして、「それ以外はできたかなと思う。最後まで諦めずに精いっぱいやることはできた」と潔く言った。

羽生とチャンの演技中に

2013年12月、全日本選手権後に発表されたソチ五輪代表メンバー(撮影:矢内由美子)
2013年12月、全日本選手権後に発表されたソチ五輪代表メンバー(撮影:矢内由美子)

そうこうするうちに、取材エリアのやや高い位置に設置されているモニターテレビがチャンの演技を映し始めた。金メダルのゆくえが決まる4分半だ。

果たしてチャンは、冒頭のコンビネーションジャンプを美しく成功させ、映像を見守る各国記者たちを感嘆させた直後に、まさかの崩れを見せた。4回転トゥーループと3回転アクセルで相次いでミス。取材エリアでは小さく「アッ」という声も聞こえた。

高橋の取材はなお続いていた。ソチ五輪に向かう道のりを振り返りながら、笑みを少しゆがめるようにして話しているときだった。チャンの得点が出た。羽生には及ばず、2位。この時点で羽生の金メダルが事実上ほぼ確実になった。

羽生がチャンに“勝った”ことは、高橋の背後に立っていたアテンド役のJOC広報スタッフにも知らされた。取材エリアの日本メディアの間には、静かなアイコンタクトを媒介とした「祝・金メダル」のムードと同時に、たとえ志及ばすとも、普段と変わらない外連味のない受け答えをする高橋へのリスペクトが溢れているようだった。

それからほどなく、高橋は取材エリアから控え室へと引き揚げて行った。悲喜こもごものミックスゾーンで、彼は最後まで柔和な態度を変えることはなかった。

時計の針はソチ時間午後11時50分近くを指していた。深夜まで続いたつばぜり合いは、羽生1位、チャン2位。3位にテン、4位にフェルナンデス、5位に町田、6位が高橋という結果だった。

あれから1年たった今なお記憶に鮮明なのは、取材エリアで見た選手たちの表情だ。寂しさも喜びもすべて穏やかな笑みで受け止めていた高橋、ミスへの反省を口にしながらすぐに次なる高みへと視線を移していた羽生、敗れてなおすがすがしかったチャン。思えば町田は落胆していたが、そのときすでに世界選手権で不死鳥として高く羽ばたく決意だったのだろう。

現役選手としての高橋の最後の試合はこのソチ五輪だった。あのときはそれが最後になるとは誰も知らなかった。1年たっても色褪せない記憶。自らは長く曲がりくねった道を歩みながらも、後世に太い一本道を示した。日本男子フィギュアの歴史を変えた高橋大輔に、花束を。

【フィギュアスケート】失敗でさえ自らを輝かせる材料にしてしまうのが高橋大輔だ

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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