「いじめの定義」と「いじめる理由」を、元スクールカウンセラーが考察いたします。
こんにちは。
精神医学と性格心理学に詳しい
心理カウンセラー(公認心理師)の竹内成彦です。
今日は、「いじめの定義といじめる理由」というテーマでお話ししたいと思います。
ちなみに私(竹内成彦)は、2002年の10月から2009年の3月まで、6年半に渡り、小・中学校のスクールカウンセラーをやっていたことがあります。学校相談室に寄せられるご相談は、不登校についで、いじめが多かったです。
さて、いじめというのは、
時代の流れとともに、定義も少しずつ変化してきております。
では、早速、順にご紹介していきましょう。
1986年における、いじめの定義です。
1.自分より弱いものに対して一方的に、
2.身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、
3.相手が深刻な苦痛を感じているものであって、
4.学校としてはその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないものとする。
と、なっております。
続いて、
1994年における、いじめの定義です。
1986年における、いじめの定義4つに加え、「個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」が加えられました。
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要するに、上記で言っていることは、本人が「いじめられた」と思えば、それがいじめになるということです。
私(竹内成彦)個人的には、「これは、うーん、どうかなぁー」って思ってしまいます。だって、本人がいじめられたと思えば、誰もがいじめの加害者になってしまうなんて、ちょっと乱暴だと思いませんか?
私は、スクールカウンセラー時代、
この件で、逆いじめが何件も発生したことを覚えています。
逆いじめとは、何か?
児童生徒本人に気に食わないことがあったりしたら、「いじめられた」と大騒ぎし、自分が被害者となり、自分に対して気に食わないことをした子たちを、いじめの加害者呼ばわりし、他人に対し精神的苦痛を与えることを言います。
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こんな逆いじめが発生する可能性がある定義づけをして、「それでいいのかなー」と、私的には思ってしまうということです。
続いて、
2006年における、いじめの定義です。
以前からあった、いじめの定義から、「一方的に」「継続的に」「深刻な」という項目が削除されました。
そして、「当該児童生徒が、一定の人間関係のあるものから、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とする、という文章が追加されました。
これらにより、一方的でなくても、継続的でなくても、深刻でなくても、いじめと認知し、問題解消に向けた取組を推進する…という立場を取った、ということです。
要するに、一方的でなくても、双方がやりあっていたとしても、そして、継続的でなくても、1回でもあれば、そして深刻でなくても、軽いからかいでも、いじめと定義される、ということです。
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このあたりも、私的には、いかがなものかと思ってしまいます。だんだん学校生活が息苦しく感じてしまうのは、私だけではないかと思うのですが、どうでしょう?
続いて、
2013年以降の、いじめの定義です。
「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」とする。
以上です。
このあたり、文部科学省の方々の文章は、堅くて、やっぱり理解するのが難しいですね。
では、ここでまとめましょう。
いじめを理解するポイントは、次の3点です。
1.一定の人的関係にある。
2.心理的・物理的な影響を与える行為である。
3.心身の苦痛を感じている。
以上です。
おわかりいただけましたでしょうか?
今言いましたが、「攻撃」という言葉から、「影響を与える行為」という言葉に変更されています。そして、「精神的な苦痛」という言葉から「心身の苦痛」という言葉に変更されています。
次に、いじめは、加害者、被害者が、短いサイクルで入れ替わり、その多くは大人の目の届かないところで、巧妙化、過激化する傾向があることなどが指摘され、社会問題として、大きく取り上げられています。
宜しいでしょうか?
よく、「いじめられた経験のある人は、いじめが良くないことであること、そして、いじめの痛みをよく知っているから、いじめをする側には回らない」等という言葉を聞くことがあるのですが、
それは嘘で、いじめる側がいじめられる側になることもあれば、逆に、いじめられる側がいじめる側になることもよくある、決して珍しくはない…、ということです。
続いて、いじめをなくす方法についてお話したいのですが、その前に、「何故いじめ問題がなくならないのか?」について考察したいと思います。
いじめがなくならない理由は、今も昔もいじめをする人があとを絶たないからです。これは、当たり前ですよね。
いじめは、私が生まれる前からありましたし、私が子どもの頃もありましたし、私が大人になった今でもあります。これだけ、いじめ禁止の啓蒙(けいもう)活動が行われているにも関わらず、一向に減る気配がありません。それがいじめの実情です。そして、いじめは、子どもの社会にもありますが、大人の社会にも普通にあります。普通に、数多くあります。
さらに、もっと言えば、人間社会だけではなく、動物の社会にもあります。イヌやサルの世界にもいじめはありますし、あの癒しの動物と言われるイルカの世界にもあります。さらに、もっともっと言えば、細胞レベルでもいじめはあります。たとえば白血球は、異物を見つけると、それを排除しようと躍起になります。これも、いじめと言えば、いじめです。
そういった意味から言えば、いじめは本能レベルの問題と言っていいのではないでしょうか? 自分たちとちょっと違ったものを見つければ、それを攻撃しようと反射的に行動する。それがいじめなのだと思います。よっていじめは、いつ誰がどこで発生させてもおかしくない、非常におぞましいものである、ということが言えるかと思います。
私は、いじめの話が出てくるたびに、「いじめをする人は許せない。人が人をいじめるなんて信じられない。いじめをする人の神経を疑う」なんて言葉を見たり聞いたりするのですが、そうではなく、私たちは、誰もが、いつなんどき、自分がいじめの加害者もしくは被害者になる可能性がある…ということは、頭に入れておいたほうがいいと思います。
私は、正直言いますと、過去、いじめの加害者にも被害者にも、そして、いじめの傍観者にもなったことがあります。今思い出しても、大変に恥ずかしい話ではありますが、私は人をいじめたことがありますし、これまた大変に屈辱的な話ではありますが、人からいじめられて自殺しようとしたこともあります。また、人がいじめを受けているのを見て、知らん顔を決め込んだこともあります。
ですから、私は、いじめというのは、自分とは無縁なものだ、無関係の世界で起こっているものだ、と思ったことは1度もありません。私は小学校に入った直ぐと小学校を卒業する頃に、強烈ないじめを受けましたし、よって、50年以上ずっと、いじめを身近なものとして感じております。
そして私は、いつも、自分がいじめの加害者にも被害者にも傍観者にもならないよう、今も気をつけています。いつも、今も、気をつけ続けています。
けれど、そんな、いじめに気をつけている私ではありますが、今も毎日のように、いじめのようなことを言われたりされたりしています。私は大した有名人でもないのですが、これを有名税と言うのかなあ…等と思ったりしています。
ちなみに有名税とは、有名人であるために、好奇の目で見られて苦痛を受けたり、出費がかさんだりすることを、税金にたとえていう言葉です。
たとえば私は、ヤフーニュース記事やユーチューブに、こうして記事や動画をせっせと投稿しているわけですが、ときどき、心ない誹謗中傷メールを、フリーアドレスで、私のもとに送って来る輩がいます。また私は、アマゾンで、本を数十冊出版しているのですが、本の内容とは関係のない、人格攻撃としか思えないレビューを書かれたりしています。
相手が誰だか、私には知りようがありません。相手には、私の姿が見えているけれど、私には相手の姿が見えていない…という状態です。
しかも1対多数。これでは私には、勝ち目がないです。そして私は、大きく、心身の苦痛を感じています。
反論のしようがない私に向かって、罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐く行為を、いじめと言わないで何と言いましょうか? 自分は匿名、自分は正体不明で安全。自分が勝つことがわかっていながら、私(竹内)に喧嘩をふっかけるような真似は、いじめ以外の何ものでもないです。けれど、相手は、「自分は正義なんだ」「自分は、竹内の間違いを正してやっているんだ」と思っているのですから、本当にタチが悪いです。
とまあ、自分の話は、ここらへんで置いといて…。
いじめはなくなって欲しいけれど、哀しきかな、今後もなくなることはない…、と私は思っています。それは交通事故と同じです。交通事故はゼロになって欲しいけれど、ゼロになることは今後もないだろうなあ…ということです。ホント、哀しきかな、です。
さて、どうしていじめはなくならないのでしょうか?
私なりに考察していきたいと思います。
ひとつめは、いじめをするのは、本能レベルの行為だからです。
人には、自分たちと違った、異質な人を見ると、本能的に排除したくなったり攻撃したくなったりする本能が備わっている、そんな生き物だからです。人より背が低いという理由でいじめられる。人より背が高いという理由でいじめられる。人より痩せているという理由でいじめられる。人より太っているという理由でいじめられる、これらが今言った本能レベルのいじめに該当します。
ふたつめは、いじめをすると己のパワー欲求が満たされるからです。
パワー欲求とは、「自分は力を持っていると思いたい」という、人間の持つ根源的な欲求です。パワー欲求に理由なんてありません。「自分は強い人間だと思いたい。自分は力のある人間だと思いたい」そういう欲求です。人をいじめると自分のパワー欲求が満たされる。だからいじめをするのです。いじめは、自己肯定感を簡単にアップさせる、安易で卑劣な行為だと、私は思います。
私に対し、誹謗中傷のメールを送って来る人、私の書いた本に対し、熱心に悪口レビューを書く人は、その行為を通じて、己のパワー欲求を満たしている…というわけです。著者である私のことを、貶(けな)したり、腐(くさ)したりすれば、自分が偉くなったような賢くなったような気がしますからね、その快感に憑りつかれている…というわけです。
みっつめは、いじめをすると単純に面白いから楽しいからです。好奇心欲が満たされるからです。
お笑い芸人がドッキリに遭って、大きなリアクションをしたり、困惑したりする姿を見ると、つい笑ってしまいます。単純に面白いと思う。あの感覚です。今言ったドッキリの延長線上にあるのがいじめです。単純に面白いからいじめをしてしまうという構図です。
だからと言って、「世の中からお笑い芸人がいなくなればいい」とは、私は思っていません。彼らは、あれで飯を食っている、不細工をいじられて笑っている、お笑いのプロだからです。
以前に、ちょっと感動したことがあったのですが、 漫才師であるアインシュタインの稲田(いなだ)さんが、「僕はプロです。プロのブスです。だから何を言われても大丈夫ですが、間違っても一般の人に、『アインシュタインの稲田に似てるな』とか、絶対に言わないでください。とくに女の子、冗談でも言うのは本当にやめてあげてください。気をつけて…。それは言葉のナイフですから」なんてことを言っていたのですが、本当にその通りだなあと思いました。いなちゃんって男前やなあと思った次第です。
続いて、よっつめは、いじめをすると所属欲求や群居欲が満たされるからです。
いじめは、1対1で行われることもあるのですが、1対多で行われることが多いです。多というのは、いじめる側です。いじめている側は、多人数でいじめをやっていると、おかしな仲間意識や団結力を感じていて、それが快感および高揚感を覚える形となるのです。だから、いじめる側は、いじめがやめられないのです。
以上、いじめをする理由、いじめをやめられない4つの理由を述べました。
不謹慎な言い方にはなりますが、こんなに楽しいお遊びであり、自分の多くの欲求を多大に満たしてくれるいじめが、ありきたりの道徳論なんかでやまるわけは、ありません。
思いのほか、長くなってきたので、今日はこれで終ります。
次回は、いじめ防止といじめ解決のお話をしていきたいと思います。
今日も最後までお読みくださって、どうもありがとうございます。
心から感謝申し上げます。
この記事を書いた人は、心理カウンセラー(公認心理師)の竹内成彦です。