引退式を控えたアーモンドアイを支えた男達のコメントとルメールのマスクの逸話
「とにかく頭が良かった」
「32頭のG1馬を破りました。その32頭が勝ったG1レースは全部で52レースあるはずです」
こう口を開いたのはクリストフ・ルメール。19日に引退式を控えるアーモンドアイの戦績について「自分でカウントしたので多少の間違いがあるかもしれませんけど……」という数字を披露した。
改めてアーモンドアイのどこが優れていたかを問うと「とにかく頭が良かった」と言う。
「フランス時代の僕が乗った代表馬としてはディヴァインプロポーションズやプライドがいました。彼女達も素晴らしい馬でしたけど、いずれも調教や競馬でコントロールするのが大変でした。常に全力で走ってしまおうとするのです。それに比べるとアーモンドアイはおとなしくて手を焼きませんでした。それがたとえ調教でも最後の直線で追えばエンジンをかけて一所懸命に走ったけど、ゴールラインを過ぎて止めにかかるとすぐにまたリラックスしました。それはまるで『はい、終わりですね、オーケー、オーケー』と言っているようでした。本当に頭の良い馬でした」
スピード能力に秀でているため有馬記念(19年)の時のように掛かってしまった事もあったが、通常は楽に、それでいてしっかりと走ったと続けた。
調教での走りに「驚いた」と語ったのは国枝厩舎で持ち乗り調教助手を務める福田好訓だ。普段は同じ肩書きの根岸真彦が担当していたが、この春、福田の携帯に国枝から電話がかかってきた。
「『競馬学校で検疫中のアーモンドアイに乗ってくれるか?』と言われました」
開催の中止により空振りとなったドバイ遠征。アーモンドアイと共にかの地に飛んだ根岸が帰国後、自宅で2週間、自主隔離をしなくてはいけなくなった。そのため、代打でアーモンドアイの調教をつけるよう指示され、跨ったのだ。
「軽く走っているのに簡単に速い時計が出ちゃう。これはモノが違うと改めて感じました」
直後にヴィクトリアマイルを圧勝するのを見て、むべなるかなと思ったそうだ。
担当者が最も思い出に残ったレースとは……
「普段はおとなしいけど、唯一うるさかったのは秋華賞の時ですね」
そう語るのは調教助手の椎本英男だ。
「いつもと雰囲気が違ったので、この時から2人曳きをするようになりました」
国枝も同調する。
「あの時は装鞍所から今までにないくらいイレ込みました。『3冠が懸かっているのにヤバいな……』って思ったものです」
春にオークスを制し2冠馬となった後、夏は放牧に出された。秋華賞はオークス以来のぶっつけ。中間、爪を痛めたとの報道もあり、その点も影響があったのか? 担当の根岸は言う。
「調教も少しセーブしたし、多少の影響はあったかもしれません」
最終追い切り後、全く馬場入りしなかった事が、当時も話題になった。普段とは違う臨戦過程。頭の良いアーモンドアイだからこそ、感じるところがあったのだろうか? 根岸は続ける。
「そんな過程だったにもかかわらず勝ってくれたので、僕の中では秋華賞が1番、思い出に残っているレースです。ゲート裏まで行って、スタートを見送った後、歩いて移動しながら3冠達成を見たのは忘れられません」
これも有名な話だが、3歳時のアーモンドアイはレース直後に熱中症のような症状が出てフラフラになる事があった。秋華賞も同様。口取り写真の撮影中には脚ががくがくと震え出したため、すぐに引き上げて、水をかけた。先出の椎本が言う。
「父のロードカナロアもそうなった事があったと噂で聞きました。筋肉量が豊富で熱が内にたまってしまうのかもしれません」
当時は心配されたそんな症状だが、レース後は“馬服を着せず”“水をかける”など、厩舎側にも免疫が出来た事もあり、この心配はやがて霧散していった。国枝は言う。
「成長もあったんでしょうね。古馬になる頃には全く心配なくなっていましたけど、万が一に備え、最後の1戦まで水はかけ続けました」
マスクに刺しゅうされた★のエピソード
このような形で3冠制覇を達成したアーモンドアイ。それだけでも充分偉業だが、結果的にそれはキャリアの中でまだ3分の1に過ぎないタイトルの数だった。ラストランとなったジャパンC(G1)で無敗の若き3冠馬2頭をまとめて負かし、アーモンドアイは9回目の戴冠。レース後のルメールのインタビューを見て「おや?」と思ったのは国枝だ。
「私達スタッフとクリストフは、クリストフの奥さんのバーバラからお手製のアーモンドアイマスクを配られていました。それには8度勝利したGⅠを意味する8つの★マークが付いていたのですが、ジャパンC後のルメールのマスクを見たら★が1つ増えて9個になっていました。『バーバラは信じていたんだな』って思いました」
これに関し、主戦ジョッキーがエピソードを明かしてくれた。
「ジャパンCを前にした週半ば、家にいる時にバーバラが『マスクに★を9つ付けよう』と言ってきたのですけど、僕が『それはダメです』と答えました」
勝負事の怖さを知る勝負の世界に生きる人なら、その気持ちが分かるだろう。油断して負けるのではなく、油断しそうになれば負けるのが勝負なのだ。ルメールにそう言われたバーバラさんは「分かった」と答えた。しかし、主人に内緒でこっそりと最後の★を足したモノを作っていたのだ。
「インタビューに向かおうとしたら、バレットに呼び止められ、★が9つ付いている新しいマスクを渡されました」
ルメールは笑いながら、そう言った。
そんなアーモンドアイにルメールが跨るのも、後は引退式を残すのみ。最後のランデブーを前に、彼はその気持ちを吐露した。
「もう1度乗れるのは楽しみだけど、最後と思うと寂しくなります」
担当者が引退を「寂しくない」と語る理由
一方、全く違う本心を口にしたのが根岸だ。引退式を直前に控えた現在の気持ちを聞くと、微笑を見せながら言った。
「これはやっぱり『寂しい』って言った方が良いですかね?」
3年間、苦楽を共にした相棒との別れが寂しくないわけはないと思えば、この言葉の行間に彼なりの“照れ”や“強がり”が垣間見える。しかし、ある意味これは本心なのかもしれない。あれだけの馬である。携わってきた人間としては、相当のプレッシャーがあっただろう。その重圧から解放される。そう思えば、もしかしたら“寂しくない”のかもしれない。根岸に突っ込んで聞くと、ワンテンポ置いた後、口を開いた。
「最高の形で引退レースを終えられて、大きな怪我もなく無事に牧場へ帰せるので、寂しい気持ちよりも安堵の気持ちの方が強いのは事実です」
19日の中山競馬場で行われる9冠馬の引退式。ルメールはもちろんだが、根岸の表情にも注目したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)