「厳しい親鳥」。間寛平が吐露する明石家さんまへの思い
昨年、デビュー50周年を迎えた間寛平さん(71)。新型コロナ禍のため、昨年は開催できなかった50周年記念イベントを「間寛平 芸能生活50周年+1記念ツアー『いくつになってもあまえんぼう』」として全国10都市で行います。連帯保証人になっての借金地獄、ヨットとランだけで世界一周するアースマラソン、そして、前立腺がん。あらゆる形の負荷がかかり続けた芸人人生でもありましたが、常に寄り添っていたのが後輩であり、盟友の明石家さんまさんでした。寛平さんが語る明石家さんまという存在とは。
後ろ暗いことはない
吉本新喜劇の座長をしていた29歳の時に結婚して、32歳くらいからはどん底でしたね。とにかく借金。頼まれるがままに連帯保証人になって借金が大きくなっていって、借金取りに悩まされる日々でした。
ただね「もう、アカン…」というタイミングで、ウソみたいに誰かがギリギリ助けてくれるんです。
今日150万円返さないといけないのに、手元には1500円しかない。どうしたらエエねんと思って楽屋に居たら、たまたま久しぶりの知り合いから電話がかかってきて150万円工面できたり、あと数日で300万円用意しないといけない中、知り合いの飲み屋さんに頼まれてクリスマスイベントで司会をしていたら、たまたま横に座った人が工面してくれたり。
もちろん、その人たちにもお金を返すわけですけど、そうやって、自分でもウソみたいな流れが重なって、何とか今までやってこられたという51年でしたね。
そんな生活ではあったんですけど、自分の中で、人を裏切ったり、だましたりは絶対にしていない。それは今でも自信を持って言えます。
だから、後ろ暗いことは何もないし、しんどい思いは山ほどしたけど、堂々としてられる。それはありますね。
その考え方を教えてくれたのは、親父やと思います。親父からは「ウソをつくな」「悪いことはするな」と言われてきました。
僕ら貧しい中で生きてきたけど、例えば、銭湯に行っても親父から言われてました。お客さんの履き物が並んでいるところで「あ、これは良い靴だな」と思ってそれを履いて帰ったら、盗まれた人はまた誰かの靴を盗まざるをえなくなって、誰かの靴を履いて帰る。
そうやって、誰かが悪いことをしたことで、悪い連鎖が起こると。だから、そういうことは絶対にしたらアカンと言われて、それを大人になっても守ってきました。
明石家さんまとの縁
だまされることはあっても、だますことだけはなかった。いつも正直でいる。それがあったから、さんまちゃんとの縁もできたんやと思います。
さんまちゃんが新人の頃から付き合いはありました。僕もまだ20代半ばでキャーキャー言うてくれるお客さんもいた頃でしたけど、新喜劇の営業の前座でさんまちゃんが来てくれてたんです。その時は「さんまちゃん、頑張りや!」と言うてたんですけど、えらいスピードで頑張り過ぎです(笑)。
あと、僕が淡路島で交通事故をして、当時レギュラー出演していたMBSテレビ「モーレツ‼しごき教室」に急に出られなくなった時も、代役をさんまちゃんが務めてくれました。
そんな感じで付き合いはあったんですけど、さらに付き合いが深くなったのは僕が40歳くらいの時、東京に行くようになってからですね。僕の借金の日々の中でも、とりわけ借金が多かった時期でもありましたし、さんまちゃんは30代半ばで、今と変わらず、そら、売れまくってました。
そんな中で、さんまちゃんが「兄やん、東京来てるけど、借金大丈夫ですか」と聞いてきてくれたんです。
そこでも、変にごまかしたり、カッコつけたりせんと正直に「ホンマに、しんどいねん」と言うたら「実は、今度、毎日放送で『痛快!明石家電視台』という新番組をやるんですけど、兄やん、入ってもらえませんか?」となったんです。それが今でも続くレギュラーです。
あと、ギリシャで246キロを走るスパルタスロンというのがあって、何回も僕は挑戦したんですけど、そこにさんまちゃんがホンマに忙しい中、10日ほど時間を作って来てくれた。これは、僕の芸人人生を振り返った時に、すごく大きなことやったんです。
もう30年ほど前の話になりますけど、当時は、今ほどマラソンのイメージがあるタレントさんがいなかったんです。そんな中で、さんまちゃんがわざわざ来てくれたことによって、僕のスパルタスロン挑戦が特番になって、正月に放送された。それがものすごく高い視聴率を取って、そこで、間寛平=走る人というイメージがついたんです。
実際、そこからCMが4つほど舞い込んできましたし、日本テレビの「24時間テレビ」で走るという企画にもつながっていきました。さんまちゃんが「スパルタスロン」に来てくれたところから、完全に潮目が変わったんです。
もう一回、いばらの道を
ホンマにエエ流れをいただきましたけど、何がどうなるか分からんという話でいうと、もともと、マラソンを本格的に始めるきっかけも借金やったんです。
その前から、池乃めだかちゃんと話す中で走ることに興味を持ってはいたんですけど、借金の取り立てが激しくなって、舞台の合間にも僕を探して押しかけてくるようになった。
それがイヤやから楽屋の裏口の窓から外に逃げて、近くの公園を2時間くらい走るんです。ゆっくり走ってたら「寛平や!」となるかもしれんから、気づかれんくらい、すごいスピードで(笑)。
借金取りに電話する時も、家族に要らん心配かけんように家から遠い公衆電話まで走って電話をするようにしていて、そのことでも走る力がつきました。
だからね、借金ありきで走ることになっていったんです(笑)。それが後々の自分に結びついていったというのも、面白いもんやと思いますね。
僕も、もうこの歳じゃないですか。自分のゴールを見据えて、先のことも考えます。
今もレギュラー番組を何本もさせてもらって、そら、ありがたい限りです。今回の全国ツアーでも、大忙しの人気者がたくさんゲストで来てくれる。そんな仲間もいるし、このまま楽しく、楽に、残された人生を過ごすこともできると正直、思います。
でもね、なんなんやろね。それではアカンと思う自分がいるんです。もう一回、アースマラソンやないけど、いばらの道を歩むべきやと。そんな思いを持っているからこそ、今でもほぼ毎日10キロは走っています。
このままゆっくりじゃなく、もっと、もっと高い山を目指す。その思いの根底にあるのも、さんまちゃんかもしれませんね。
さんまちゃんを例えるとしたら、厳しい親鳥やと思います。親鳥くらい、掛け値なしに優しいし、いろいろなものも与えてくれる。でも、甘えてたら自分でエサを探しに行かせるし、それが子どもを強くすることやとも思ってるんかもしれんけど。ま、もちろん、僕の方が先輩ではあるんですけど(笑)。
ホンマにね、一緒にゴルフをやってても、ショットに失敗してしょぼくれてたら「何をしょぼくれてまんねん!シャキッとしなはれ」とすぐ言われますし、あらゆるところで支えてもらってます。
そらもうね、僕が卵やとしたら、何回も孵化させてもらってます。…あ、卵は孵化したら終わりやから、例えとしたら、余計分かりにくなった?ごめんねぇ(笑)。
(撮影・中西正男)
■間寛平(はざま・かんぺい)
1949年7月20日生まれ。高知県出身。本名・間重美(しげみ)。70年、吉本新喜劇の研究生になり、74に座長に就任する。78年に新喜劇の座員だった光代さんと結婚。89年に東京進出し島田洋七とのコンビ結成などでも話題になる。35歳の頃からマラソンを本格的にはじめ、246キロを走破するギリシャのスパルタスロンや日本テレビ「24時間テレビ」のマラソン企画にも挑戦。2008年12月から11年1月にかけてヨットとランだけで地球一周する「アースマラソン」を完遂する。「ア~メマ!」「かい~の」などヒットギャグ多数。MBSテレビ「痛快!明石家電視台」、読売テレビ「大阪ほんわかテレビ」、ABCテレビ「探偵!ナイトスクープ」などにレギュラー出演中。5月26日にCD「8、9、10の歌~BEAT THE CORONA(コロナに負けるな)~」をリリース。全国ツアー「間寛平 芸能生活50周年+1記念ツアー『いくつになってもあまえんぼう』」も開催する。東京公演(6月6日、有楽町よみうりホール)、宮城公演(6月27日、仙台サンプラザホール)などを経て、大阪公演(10月9日、10日、なんばグランド花月)で全国10都市でのツアーを締めくくる予定。