ルポ・技能実習生が「逃げる」ということ(2)彼女が決断した「脱出」、極度の長時間労働と搾取への抵抗
技能実習生が会社から出る/逃げることとは、いったいどんなことなのか。それは、日本政府の使う「失踪」という言葉では簡単に片づけられない。そのことを考えるきっかけをくれたのは、ある1人のベトナム人女性だった。
2017年8月の汗がにじむ午後。地上に比べれば少しは涼しさを感じなくもない地下鉄駅で、私は人を待っていた。気が付くと、携帯電話の液晶にうつった時計の時間が約束した時間を少しだけ過ぎていた。彼女は本当に1人で駅まで来られるのだろうかと、改めて心配になってくる。
すると、ホームへと続くエスカレーターからジーンズをはいた女性がさっと降りてきた。ぴったりとしたTシャツに、小さなリュック。少しだけ明るくした髪の毛。うっすらとメイクもしている。ふっくらとした頬は自然のままに、唇にのせた明るい色がポイントとなり、豊かな表情をつくっている。彼女は、こちらに気が付くと、すぐに屈託のない笑顔を見せてくれた。
ベトナム出身の20代の女性、グエン・タン・スアンさん(仮名)だった。
初めて対面した彼女は、思いのほか元気そうだった。SNSを通じスアンさんの状況を聞き、それが決して楽観できるものではなかったので、彼女の明るい表情にほっとする思いがした。同時に、知り合いがほとんどいないこの都会の街で複雑な地下鉄を乗り継ぎ、ここまで1人でやってきたことや、笑顔を見せながらきちんと挨拶してくれたことに、しっかりとした彼女の在り方をみるような気持ちになった。
身なりに気を使い、にこやかにほほ笑む彼女は、ふつうの若者のようにも見える。
まさか彼女がどこからか逃げてきたとは、その込み入った事情を知らなければ、誰も想像がつかないだろう。
実はスアンさんは、技能実習生として就労した縫製会社の過酷な就労環境に耐えかね、「脱出」を図った女性だったのだ。
◆不発弾の残る故郷
1990年代半ば。ベトナムがアメリカとの国交を回復したころ、スアンさんは5人きょうだいの2番目として、ベトナム中部の省で生まれた。父はテト攻勢の起きた時期に生まれており、両親ともにベトナム戦争世代だ。
ベトナム中部は故ホー・チ・ミン主席や、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍を撤退に追い込むなど活躍し、「赤いナポレオン」と呼ばれた故ボー・グエン・ザップ将軍の生まれた土地だ。古都フエや日本人町を抱えたホイアンといった観光地でも知られる。近年では中部を代表する都市ダナンでリゾート開発が進むなど、経済面での存在感も高まっている。
しかし、中部はベトナム戦争時に大きな被害を受けた地域でもある。スアンさんの生まれた省は南北を分断していた当時の軍事境界線に近い。このためこの省には戦争時、クラスター爆弾をはじめとする無数の爆弾が投下された。地中には現在も爆発物が多く残っている。不発弾だ。現在も中部地域には不発弾が数多くあり、これが時折爆発し、子どもたちをはじめとする犠牲者を生み出し続けている。周辺地域の開発の妨げにもなっている。
中部地域は経済的な遅れが指摘されてきた。ベトナムは南部ホーチミン市と首都ハノイ市が二大経済圏を形成してきた半面、中部地域は長らく後れを取ってきたのだ。そうした経済状況だからなのかは分からないが、ゲアン省など中部からも海外に働きに出る人が出ている。
スアンさんの両親は農業をしながら、子どもたちを育てた。しかし母は病気がちで、一家には医療費の負担が常にあった。スアンさんには就学年齢の年下のきょうだいもおり、学費もかかる。
スアンさんは中学を出ると、すぐに働きだすことを決めた。学校にいくよりも、できるだけ早く働いて、収入を得て、家族を助けようと思ったのだった。
実家を出たスアンさんはレストランで働くことになった。住み込みで朝5時から夜9時まで働いた。休憩は午後3時から4時の1時間の休みだけ。当時の月給はこれだけの長時間労働でも月に7000~8000円程度だけだった。それでも彼女は働いて得たお金を両親に仕送りし、家族の暮らしを助けた。
その後はベトナム企業の縫製会社で2年ほど働いた。このときは別にアルバイトもしていた。午前8時から午後5時まで縫製工場でミシンの前に座り仕事をした後、その後は夜の11時までカフェやレストランで働いた。縫製会社の月給は2万5000円程度。アルバイトの賃金も含めると、スアンさんの月収は約3万円だった。
父の農業による収入は月に1万5000円ほどで、スアンさんの収入と合わせると、世帯収入は月に4万5000円程度になった。ただし、就学年齢のきょうだいたちがいる上、病気の母親の医療費がかかることから、一家の家計は決して楽ではなかった。
◆100万円超える借金
そんなとき、スアンさん家族に日本行きの情報が入ってきた。
この情報を運んできたのは、技能実習生を日本に送り出していた仲介会社(送り出し機関)に労働者を紹介する個人の仲介者、いわゆるブローカーだった。「ルポ・技能実習生が『逃げる』ということ(1)『失踪』と片づけていいのか? 借金漬けの移住労働と低賃金」で書いたように、ベトナムでは移住労働者の送り出し産業が構築されており、営利目的の仲介会社が積極的にビジネス展開している。ブローカーもまた、この移住産業の担い手なのだ。
「日本に技能実習生として行けばお金を稼げる」
「日本の賃金水準は高い」
経済的課題を抱えていたスアンさんの両親はこうしたブローカーの話を聞き、スアンさんに日本に行くようにと言った。儒教の影響を受け、家父長制が根強いベトナムでは、親の言葉は重い。病気の母のこと、学費のかかるきょうだいのことを思い、スアンさんは両親の気持ちを汲み取り、日本に行くことに同意した。
日本行きのためにスアンさんの両親はブローカーに1,000米ドル(約11万2,900円)渡した上で、ブローカーから紹介されたハノイの仲介会社(送り出し機関)に手数料4,500米ドル(約50万8,050円)、保証金3,500米ドル(約39万5,150円)を支払った。
スアンさんはその後、仲介会社(送り出し機関)の全寮制の渡航前研修センターで8カ月間にわたり日本語を学んだ。この際の学費は手数料に含まれていたが、研修期間中の食費や生活費などを追加で支出しなければならない。
こうしたさまざまな費用が積み重なり、スアンさんの両親は渡航前の費用として合わせておよそ1万米ドル(約112万8,900)を費やした。ベトナムの水準から言っても、日本から見ても、相当の大金だ。当然のように両親の手元にこれだけの現金はなく、すべてを銀行から借り入れた。
これだけの借金を背負いスアンさんは2015年のある日、ちょうど20歳の時に来日した。20代に入ったばかりの若者にとってはあまりにも大きな借金を負い、知らない国で働くことになったわけだが、彼女は日本に期待していた。
「来日前は飛行機に乗ってみたかった」と笑顔で話すスアンさん。あの日、生まれてはじめて飛行機に乗り、日本のとある町にたどり着いた。
そして、その町にある縫製会社で働くことになる。
以前から技能実習生を受け入れてきたその縫製会社には数十人の技能実習生がいた。もともと中国人の技能実習生を手広く受け入れてきたが、近年はベトナム人技能実習生を受け入れており、スアンさんが働き始めたとき、中国人技能実習生よりもベトナム人技能実習生の数の方が多かった。そして、縫製業の常として、技能実習生はすべて女性だった。
技能実習制度では、農業、漁業、建設、食品製造、繊維・衣服関係、機械・金属関係、家具製造、印刷、製本、プラスチック成形、塗装、溶接、工業梱包、紙器・段ボール箱製造、陶磁器工業製品製造、自動車整備、ビルクリーニング、介護など計77職種139作業で技能実習生が就労できる。
その中で、建設は男性技能実習生の職場というように、一部職種ではそこで就労する技能実習生の性別に偏りがある。縫製については、技能実習生の大半は女性だとみられている。日本の縫製業は、アジア諸国出身の女性たちに支えられているとも言える。
縫製業で働いた経験を持つベトナム人の元技能実習生の中には、「日本での仕事は良かった。また会社の人たちに会いたい」と話す人もいた。
ただし、縫製業はかねて、長時間労働や最低賃金を下回る残業代の存在など、違反行為が発生してきたことも事実だ。ベトナム側の仲介会社(送り出し機関)や日本の監理団体の関係者からは、「問題が多いので縫製にはうちの技能実習生を入れたくない」との声も聞く。縫製部門のすべての受入れ企業で問題があるわけではないだろうが、それでも縫製部門で継続してきた違反行為が問題視されている。
そんな中、スアンさんもまた、困難に直面することになる。それも思いがけないほど早く、彼女は過酷な就労状況に置かれることになった。
◆朝3時まで、1日17時間に及ぶ長時間労働
スアンさんは日本に到着した翌日、午後3時すぎまで、日本語の研修を受けた。そして、その後は、翌朝3時まで仕事場でミシンを踏むことを求められた。
技能実習生は来日後、監理団体のセンターで1カ月ほど、日本語や日本の文化、日本の生活に関する研修を受けることが一般的だ。1カ月の研修後に実習先の企業に配置されることになる。
しかし、彼女の場合は「研修」期間中にすぐに仕事が始まった上、翌朝3時まで働かされた。とても「研修」とは言えない。
実はスアンさんの実習先企業の代表者と監理団体の代表者は同一人物だったのだ。監理団体は本来、実習先企業で技能実習が適正に行われているのかを「監理」することが求められる。だが、スアンさんの場合、実習先企業と監理団体の代表者が同一人物であり、実習先企業と監理団体が一体化していた。この状況でどんな「監理」が可能なのか。付け加えておくが、実習先企業と監理団体の代表者が同一人物というのは、他の技能実習生の事例でも存在する。
スアンさんは「研修」期間が終わると、今後は朝8時から翌日の午前3時までミシンの前に座り働き続けることが常態化していった。午前8時に仕事を開始し、正午から午後1時までお昼休憩。その後は、午後1時から午後5時まで働き、午後5時から午後6時に夕食をとる。食事がすめば、今後はそのまま午前3時まで仕事が続く。つまり休憩時間を抜くと、1日17時間も働いたことになる。
休みは月に多くて4日、少ないと3日しかなかった。
厚生労働省は月に80時間を超える残業について、過労死ラインとしているが、スアンさんはその水準をはるかに超える時間働くことが要求された。
生活にも課題があった。
スアンさんたちは会社が用意した「寮」に住んでいたが、そこはプレハブ小屋で、十分なスペースがないところに二段ベッドが3台詰め込まれていた。プライベートな空間はなく、快適とは言い難いプレハブ小屋で、スアンさんは他の技能実習生とともに計5人での共同生活を送った。
湯船のある浴室はなく、体を洗うのは屋外に設置された簡易シャワーだ。順番でこの簡易シャワーを使った。台所や食事をとる場所は、決して清潔とは言えなかった。
午前3時までの長時間労働と、少ない休み。清潔とは言い難い宿舎での共同生活。寒い冬でも簡易シャワーを使うことが求められる暮らし。それがスアンさんたちの職場では日常化していた。
また、スアンさんは実習先企業から時給が698円だと説明を受けた。これはスアンさんの会社が立地する都道府県の当時の最低賃金とほぼ同水準だった。一方、給与から家賃と電気代として計3万2000円が引かれた後、手取りは月に8万円から9万円ほどにしかならなかった。長時間の残業分の賃金が計上されていなかったのだ。
あれだけ働いて、なぜこの金額になるのか――。
スアンさんたちはおかしいと思ったが、会社からの十分な説明はない。
タイムカードは工場の中にあったものの、スアンさんたち技能実習生はそのタイムカードを自ら押すことはできず、管理者が技能実習生の代わりにタイムカードを押し、カードを管理していた。スアンさんはノートに就労時間の記録をつけていた。自ら記録をつけない限り、正しい労働時間を記録するものはなかったのだ。
彼女たちは外出も制限されていた。会社はスアンさんたち技能実習生が自由に外に出ることを嫌がったのだ。
「近くの公民館に行って、日本の文化を教えてもらった」(スアンさん)ことがあるというが、それ以外は、日本社会とはほとんど接触がなく、買い物に出るくらいしかなかった。
そもそもあれだけの長時間労働をしているのだから、外出する時間はない。加えて、会社は商店などのあるエリアからは遠いところにあった。スーパーマーケットに行くのにも車がいる状況だった。会社の人が定期的に車を出し、技能実習生はこれに乗り、スーパーマーケットに行った。自由に買い物もできなかった。
職場では暴言もあった。日本社会とのつながりもなく、長時間労働をしていれば、日本語を学ぶ時間などない。スアンさんたち技能実習生はほとんど日本語が分からなかった。けれど、会社の人が使う「ベトナムに帰れ」という言葉は分かったという。女性たちは頻繁に「ベトナムに帰れ」と怒鳴られていたのだ。
◆支援者との出会い、「抵抗」を決断するとき
この状況の中、スアンさんは悩みながら、解決策を探した。そして、遂にSNSを使い外部に相談をするに至った。SNSを通じて、技能実習生を支援している越田舞子さんに、つながることができたのだ。
「国際コミュニケーションネットワークかけはし」の代表を務める越田さんは、佐賀県内で技能実習生を中心とする外国人を対象にボランティア日本語教室を主宰するが、以前に偶然知り合った技能実習生の苦境に胸を痛め、たった1人で技能実習生の支援に乗り出し、これまでに多数の技能実習生の支援を行ってきた。困っている技能実習生からSNSを通じて連絡を受けると、時間をかけて聞き取りをし、労基署や入管、時には警察など関係機関に連絡を入れ、技能実習生を助けている。
技能実習生は日中働いているほか、相談先を探しているような技能実習生は長時間労働をしているケースも少なくないため、聞き取りできるのは夜や休日しかない。時に深夜まで及ぶ聞き取り作業を日々行う。あまりにも困難な状況にある技能実習生については、保護することもある。これをボランティアで続けてきた。越田さんの活動に賛同し、協力してくれる人も出ている。技能実習生への人権侵害事件が各地で起きる中、労働組合や法律家に加え、越田さんのようなふつうの市民が草の根で技能実習生を支えているのだ。
連絡を受けた越田さんはスアンさんの状況に胸を痛め、なんとか助けたいと、スアンさんとのやりとりを何度も重ね、その就労実態や暮らしの状況、賃金などについて詳細な聞き取りを行い、資料としてまとめた。
異常な長時間労働に、残業代の未払い、劣悪な生活環境など、聞きとるべきことは山のようにある。資料の枚数は増えていった。越田さんはこの資料を、関係機関に送り、スアンさんの置かれた状況を伝えた。
スアンさんにとって、越田さんは自分の状況を受け止め、痛みを共有してくれる日本人だった。日本に来て初めて心を許せる存在だっただろう。同時に、厳しい現状を「変える」という希望をスアンさんにくれた。
越田さんが関係機関に通知したことが奏功し、ある時、スアンさんの就労先に役所が入り、調査を行った。その結果、会社は就労時間を見直し、以前に比べて就労時間は大幅に短縮された。それまで朝3時まで働いていたが、夜8時には仕事を終えることができるようになったのだ。スアンさんに光が見えた瞬間だった。
しかし、事はそう簡単にはいかなかった。
役所が入った後も、未払いの残業代は支払われなかった。その上、工場での就労時間は一時短縮化されたものの、その後しばらくすると、再び長時間の残業を強いられるようになった。
この状況の中で、どうすればいいのか。技能実習生の間で、意見が割れたという。スアンさんは外部に訴え続けることで状況改善を図るとともに、未払い賃金を取り返したいと主張した。しかし、技能実習生の中にはこのまま我慢して就労を続けるという人も少なくなかったようだ。他の技能実習生もまたスアンさんと同じように借金し来日している。借金を返し、家族のために仕送りしなければならない。技能実習生の中には、故郷に子どもを残してやってきた母親もいる。会社と対立すれば、強制的に帰国させられる恐れがある。いかに厳しい状況であっても、会社との間での対立をできるだけ避けたいと思ってしまう女性もいるのだ。
就労先の企業の変わらない厳しい状況。仲間との意見の食い違い。
スアンさんはこうした事態に思い悩んだ末、決断した。それは、この会社から出ることだった。そして、ある日、彼女はたった1人で会社の寮から出たのだった。来日してから、1年以上の時間がたった頃のことだ。
会社から出ることは、長時間労働や暴言、低賃金に耐えてきたスアンさんにとって困難な状況からの「脱出」だった。同時にスアンさんが自らの主体性を発揮した「抵抗」でもあった。日本政府は技能実習生が会社から出る/逃げることを「失踪」と表現する。だが、技能実習生が直面する現実はその言葉で表現できるほど、単純なものではない。(「ルポ・技能実習生が『逃げる』ということ(3)」に続く。)