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織田信長の富士遊覧は、徳川家康領に攻め込むための事前の視察だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
山中湖と富士山。(写真:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長の富士遊覧が描かれていた。富士遊覧の目的は、徳川家康領に攻め込むための事前の視察だったという説があるが、事実なのか考えることにしよう。

 天正10年(1582)3月11日に武田氏を滅ぼした織田信長は、4月10日に甲府(山梨県甲府市)を発って富士遊覧を行い、4月21日に安土(滋賀県近江八幡市)に帰国した。そのルートは、『信長公記』に書かれている。

 ところで、信長の富士遊覧は決して物見遊山ではなく、徳川家康が領する駿河・遠江の視察にその目的があったという説がある。武田氏の滅亡後、信長は家康を用済みになったとし、また将来的に歯向かう可能性があると考え、討とうとしていたというのだ。

 信長があえて富士遊覧を行ったのは、家康を討ったあと、家康の領土に侵攻するための軍事視察だったという。富士遊覧には、明智光秀、細川忠興、筒井順慶が同行していた。彼らが同行したのは家康の討伐後、光秀を大将にして、忠興、順慶を家康領内に攻め込ませるためだったと指摘する。

 信長は家康に「家康を討つ」という本心を悟られないため、あえて富士遊覧を名目として家康の領内を視察し、その後の展開が有利に進むよう計画していたというのである。しかし、この説には大きな難があるといわざるを得ない。

 そもそも信長が家康を討とうとしていたということ、家康領の視察だったということは、どの史料にも書かれていない。単なる憶測である。また、家康は信長の命により、妻の瀬名、子の信康を討ったものの、本心では信長を恨んでおり、信長もそのことを感じていたということも疑わしい。

 近年の研究によると、家康は家中分裂を防ぐため自主的に2人を処分したのであって、決して信長の命によるものではないと指摘されている。さらに、武田氏が滅亡したので、家康は用済みになったというが、この指摘も実に疑わしい。

 武田氏が滅んだとはいえ、北条、上杉などの有力大名は健在で、信長はまだまだ家康の力を必要としていた。用済みではない。したがって、信長の富士遊覧が家康領の視察だったという説は史料的な根拠もなく、ましてや信長が家康を討とうとしたという説も同様であり、単なる憶測に過ぎないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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