「いまはクロアチア人」日本から消えた石井慧、波乱万丈の10年
「オリンピックのプレッシャーなんて、斉藤先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません」
2008年、柔道の男子100キロ超級の日本代表として北京オリンピックに出場した21歳の石井慧は金メダルを獲得して、一躍時の人になった。しかし、その年の秋には総合格闘家への転向を表明、またもや日本中を驚かせた。
32歳となり日本で忘れられた存在となっているが、現在は海外の団体を転戦しながら、総合格闘家として着実な成長を遂げている。「日本は捨てた」の真意やクロアチア国籍を取得したエピソードも飛び出すなど、波乱万丈の10年を語った。(インタビューは、6月7日にアメリカ・ニューヨークにて実施)
海外転戦の理由は本当の強さを追求するため
――10年目を迎えた総合格闘技人生の手応えは?
「『一芸十年』という言葉もあるように、何ごとも10年やって身についてくるのかなと身をもって感じてますね」
――総合格闘家になる前に思い描いたことは実現できました?
「まったく違う方向に行ってますが、満足してます。いまのほうが面白いかなと」
――最も成長した部分は?
「強い相手とたくさん戦って、いろんな経験を積めました。あとは海外での生活であったり、そういうのを含めて人間的に深みが出たかなと」
――最近は海外での試合が多いですね。
「海外のほうが気楽ですよ。日本でやれば日本の選手が有利ですから。そこをあえてアウェーで戦うのは、本当の強さを追い求める意味では大切なのかなと。日本にいると、変な雑音が入ってきたりします。海外は日本ほどそういう雑音もないですし。海外のほうがぼくを評価してくれますし、合ってると思います」
クロアチア国籍取得の真意
――日本ではほとんど知られていないポーランドの格闘技団体のKSWにも出場しましたけど、すごいらしいですね?
「めちゃめちゃ盛り上がってます。昔のPRIDEみたいなバブルです。(2017年5月に開催されたKSW.39は)5万7000人も入りました。東京ドームが満杯みたいな感じです。じつは、ぼくは日本でのマーケットを意識していないというか、もう日本を捨ててるというか、別にいいやという感じなんです。それよりもKSWに出ることによって、ヨーロッパのファンに知ってもらえるし、いま住んでいるクロアチアの人に見せられるところで戦うほうがいいかなと。あんまり気にしないですね、日本は」
――「日本のマーケットは意識していない」と、その心境にいたった理由は?
「日本を捨ててはないですけど、やっぱり日本人ですから、気にしてたんですけど、そうすることによって、自分自身の素の部分を出せないのがあって。日本はいろいろ気にしないとダメなところがあるじゃないですか。自分が感じてることを言っちゃいけない国じゃないですか。だから、一回吹っ切れることによって、よくなって来ましたね」
――6月6日に初参戦したアメリカの団体のPFLではクロアチアの選手として出場して、クロアチアの国旗を持って入場しました。日本ではなく、クロアチアを選んだ理由は?
「いままで日本の熱心なファンに応援されることもなく、ずっとやってきたんで。それよりもぼくはクロアチアに住んで2年半ぐらいたつんですけど、すごいサポートもしてもらえて、みんなが応援してくれてます。だからクロアチア代表で戦って、日本人がヘビー級でチャンピオンになったぞと言わせないというか(笑)」
――クロアチア国籍をとることも考えてます?
「あ。国籍とりましたよ」
――本当にクロアチア人なんですね?
「はい。そうです。このあいだ、国籍とりましたよ。いまはクロアチア人です」
将来が約束された道を捨て、総合格闘技に転向
――10年前に金メダルを取られて、オリンピック2連覇、3連覇という道もあったはずです。どうして、あの若さで柔道を辞めて、総合格闘家になったのですか?
「昔から総合格闘技をやりたかったからです。小さいころから強さに憧れていました。柔道よりも総合の世界でどこまでできるんだろうという思いがずっとあって。オリンピックまでは柔道をがんばって、そこから先は総合に転向しようと思ってました」
――日本では2008年の北京五輪の前ぐらいに格闘技ブームは下火になり、タイミング的にはいい時期の転向ではなかったですが、気にならなかったですか?
「そうですね。ビジネスで考えてなかったので、そこはあんまり。ただ総合をやりたいからいきました」
――2008年の年末には、石井選手への独占交渉権がアメリカのメジャー団体のUFCに与えられました。契約がまとまらなかった理由は?
「ぼくのまわりにいた人たちですね。あのころは、UFCだけに限らず、いろんなことがありました。21歳というのもあり、そこで初めて、全員を信じちゃいけないんだなと。世の中には変な人もいるということを学びました(苦笑)」
――最終的に選んだのは、日本の大みそかでデビュー戦の相手は柔道界の先輩の吉田秀彦選手でした。あのデビュー戦は?
「もっと弱い選手とやるべきだったと思いました。それでも、一戦目からベテランの選手と戦うことができたのは、いい経験になりました」
――あの一戦で「石井選手は弱いんじゃないか?」というイメージが定着しました。ご自身ではどう思いますか?
「もうしょうがないと思いますね。勝負の世界だし。日本って、やり直しがきかない国だと思うんですよね。アメリカと違って。例えば、一回犯罪を犯しちゃうと、もう芸能人でもやり直しがきかないじゃないですか。でも、アメリカとかだと、ドラッグしようが何をしようが、また戻ってくるじゃないですか」
石井慧の格闘家人生も七転び八起きだ。デビュー戦翌日には「石井、弱かった」と酷評されたが、1年後にはK-1の番長ことジェロム・レ・バンナに判定勝ちを飾った。格闘技の冬の時代にあって、年末になると強豪選手とのマッチメークを石井は強いられた。2011年の大みそかには、元PRIDE王者エメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。「いままでで一番怖かった。試合前に逃げ出したかった」という一戦でパンチの連打を浴び、なす術もなくKO負けで散った。それでも、ヒョードル戦後には8連勝して再浮上。しかし、2014年にはミルコ・クロコップとの連戦で敗北を喫した。今度は海外の舞台に活路を見いだそうとして、アメリカの団体にも上がったが結果は出なかった。2016年ごろの石井は「自信喪失状態でした」と振り返るほど、落ち込んでいた。藁にもすがる思いでたどり着いたのが、現在の練習拠点のクロアチアであり、拳を交えた相手のミルコ・クロコップだったのだ。
「おまえはダイヤモンドの原石だ。磨けばまた輝くから」
――2017年からはクロアチアにいるミルコのところに練習拠点を移しました。そのきっかけは?
「ミルコに2回負けてから再起ができないというか、すごく煮え切らない感じで、3連敗しました。そのときちょうど、ミルコがRIZINグランプリ(2016年無差別級トーナメント)で優勝したんですよ。それで習いたいと連絡をしたら、いつでもいいよということで。そこからですね、行くようになったのは」
――ミルコのところの環境は何が合いました?
「一番いいのはネガティブなことを言わない。みんなポジティブですよね。『おまえはダイヤモンドの原石だ。ここでしっかり磨けばまた輝くから』と毎日のように言われました。そうするとやっぱり、精神的にもよくなってきますよね」
――石井選手は試合で戦って負けた相手のところに行って、教えてもらうことが何度かありますよね?
「自分よりも優れた技術がある人に教えてもらうのは、なにも恥ずかしいことというか、なにも意地を張るところでもないし、素直に受け入れて、足りないものを探していったら、それがミルコだったわけです」
――日本人にとってクロアチアは、想像もつかない国だと思います。そういう環境の変化も気にならないですか?
「あんまり気にならなかったですね。クロアチア自体がいい国というか、すごく環境がよかったので、すぐ好きになりました。絶対に行きたくないと思う国もありますけどね」
――クロアチアのどういうところが気に入りました?
「まず人種差別されたことがない。あとは第二次世界大戦のときの関係もあって親日です。人が親切というところがありますね。天気も日本と一緒で四季があるところが気に入りました」
常に100点満点の格闘家人生
――石井選手の知名度からすると、日本中が注目する試合を日本でやってみたくないですか?
「あんまりないですね。総合に関しては世界を視野に入れてやりたいですね。日本でやりたいのは、バラエティー番組に出演しながら、テレビのギャラをもらいたい(笑)」
――石井選手はビッグマウスの印象もあって、世間に誤解されていると思います。本当の石井慧はどんな人物ですか?
「見ての通り、こんな感じですけど。ぼくは常に素でやっているんで、メディアは、それを面白おかしく書いたりするんですね。それはもうしょうがないし、若いうちにわかっていればね、逆にメディアを利用することができたんですけど、ぼくはそれができなかったんで。誤解されてもしょうがないかなと思いますね」
――本当の石井慧はこういう人間だというのを正しく知って欲しい?
「それは人間ですから、誤解されてるのは正したいというのはありますけど、もうしょうがないと。それもあって、だから国を変えて、クロアチア国籍でチャンピオンになりたいんです。それがモチベーションです」
――最後に、これまでの10年に点数をつけるなら?
「100点」
――それはなぜでしょう?
「ぼくは常に全力なんです。自分に100点をつけられないのは、過去の自分に失礼じゃないかと思います。満足いかないことも、妥協してしまったことも、自分自身に負けたこともあります。自分が全力で挑んだ結果、そうなってしまったんだと。人生は一度きりなんで、常に満足して生きてますね。だから100点をつけます」
――いまはいい状態であると?
「順風満帆です!」
■プロフィール
1986年12月19日生まれ(32歳)、大阪府茨木市出身。2008年北京オリンピック柔道男子100キロ超級の金メダリスト。優勝後のインタビューで「オリンピックのプレッシャーなんて斉藤先生のプレッシャーに比べたら、屁の突っ張りにもなりません」と発言し、一躍時の人に。2009年12月31日に総合格闘家としてのデビュー戦を行い、吉田秀彦に判定負け。その後、元PRIDE王者エメリヤーエンコ・ヒョードルやミルコ・クロコップら強豪選手との対戦も多く経験。世界中の格闘技団体にも積極的に上がり、2017年からは練習拠点をクロアチアに移す。現在7連勝中。交際中の柔術世界女王クリスティン・ミケルソンさんとは、8月からクロアチアで同居予定。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】