Mrs.の「コロンブス」 負の歴史をタブー視せず、アートと知を耕す鍬に
社会的にはやはりアウトである理由
ロックバンド「Mrs. GREEN APPLE(ミセス・グリーン・アップル)」の楽曲「コロンブス」のミュージックビデオに「歴史や文化的な背景への理解に欠ける表現」があったとして、レコード会社のユニバーサルミュージックがこのビデオ動画の公開を停止した。
問題となった映像では、コロンブス、ナポレオン、ベートーベンのコスチュームを着たメンバーが「類人猿」の家を訪れ、ホームパーティーを開く。途中、類人猿に人力車を引かせたり、乗馬や音楽を教えたりするシーンもある。
この動画がなぜ問題なのかについては、この数日の間に多くの識者、ジャーナリストが解説してきた。Yahoo!上で読める記事としては、以下のものがある。
「ミセス、なぜ炎上?」日本人だけがわからないコロンブスのヤバすぎる問題とは?(ダイヤモンドオンライン 2024/6/14(金) 10:51)
ミセス「コロンブス」炎上を笑えぬこれだけの理由 初歩的なミス?文化や歴史認識のギャップはこうして起こる(東洋経済オンライン 2024/6/14(金)21:41)
メンバーでボーカル担当の大森元貴氏は、ビデオ公開停止後にホームページ上に掲載した文章で、「類人猿が登場することに関しては、差別的な表現に見えてしまう恐れがあるという懸念を当初から感じておりました」と記している。Yahoo!上で読める記事としては以下のものがある。
「懸念当初から感じていた」 “人種差別的”と批判のMVめぐりミセス大森元貴が謝罪 「我々の配慮不足」(ねとらぼ2024/6/13(木) 17:49)
アーティストによるこの「懸念」の見積もりが小さすぎて、世界的な視野で見たとき非常に深刻な問題であることには認識が至っていなかった、ということなのかもしれない。あるいは、「懸念」含みの内容であることを承知で、敢えて論争的・挑戦的な作品を世に問いたかったのだが、そうした挑戦として受け止められるに足る表現には行きついていなかった、ということなのかもしれない。いずれにしても、このビデオが海外で――とくに植民地支配の歴史トラウマをもつ人々が多く暮らす国々で――視聴されたときには、日本の企業やポピュラー文化の水準が深刻に疑われることになるだろう。
コロンブスをめぐる、歴史認識論争
コロンブスは、アメリカ大陸を「発見」した冒険家として語られてきたが、1980年代ごろから受け入れられてきた「多文化主義」の知見によってそのイメージが変わり、負の側面が強く認識されるようになってきた。16世紀以降、植民地を求めてアメリカ大陸に進出した西欧諸国が、先住民に対する略奪や虐殺をおこなったことは知られているが、コロンブスは、その道を開いてしまった人物ということになる。コロンブスがアメリカ大陸と出会って500年記念となる1992年には、こうした歴史認識をめぐる論争が戦わされ、「新大陸」の「発見」という言葉にも異議が唱えられた。この議論を無視してコロンブスの業績だけを一面的に(ポジティブに)たたえることは、歴史の痛みを無視する無教養なふるまいということになる。このあたりの歴史をしっかりと認識して描いた映画作品として、『1492コロンブス』(1992年作品)があり、参考になる。
また「猿」は、白人が有色人種を奴隷として利用したり差別したりするにあたって、よく使われてきたイメージである。同じ人間として平等な権利を保障する必要のない者たちだから、拉致して奴隷労働に使ってかまわない、というロジックによって、人間が人間を差別することが長く正当化されてきてしまった。
こうした文脈を総合すると、類人猿に人力車をひかせる描写は、ヨーロッパ人がアメリカ大陸の先住民を奴隷化し差別してきた歴史を思い起こさせずにはおかないし、西洋的な楽器で音楽を教える場面は、植民地支配に先立って、宣教師たちが音楽で先住民族を手なずけたというエピソードを思い起こさせてしまう。こうした歴史について描いた作品として、『MISSION』(1986年作品)がある。18世紀の南米が舞台となっている。
上に紹介した映画はどちらも、エンタテインメントとしては深刻で暗いものであるため、日本ではあまり人気はない。しかし、植民地支配の歴史について専門的な勉強はしていなくても、せめてこれらの映画を一度でも見た人が問題のビデオ作品の関係者の中にいたら、このビデオの描写が社会的にアウトであることに瞬間的・直感的に気づく人もいたのではないか、と思われてならない。
反射的タブー視ではなく、《知る》きっかけに
さきほど筆者は「法的にアウト」とは書かずに「社会的にアウト」と書いた。「ポリティカル・コレクトネス」と呼ぶことも多い問題領域である。
特定の人や民族を排撃することを目論んだヘイトスピーチとは異なり、こうした見識不足の問題は、アーティストや関係者がこれを受け止めて、今後の活動の中で挽回していくことが可能なものである。そのため、こうした表現については法律による規制はなく、「言論の自由」の中で批判や指摘を受けることで「気づき」が起きることが期待されている。
筆者はこの視点から、日経新聞社にコメントを提供した。
ミセス「コロンブス」問題、「タブー化せず議論を」(日本経済新聞2024/6/15)
記事全体は有料会員限定となっているが、筆者のコメント部分のみ、引用する。
表現の自由と憲法などを研究する武蔵野美術大教授の志田陽子氏も、一過性の「炎上」で終わらせるのではなく、より広い議論が必要だと訴える。「危惧すべきなのはクリエーターたちが今回のような歴史的テーマを忌避し、タブー化してしまうこと」(志田氏)。特にコロンブスのように「歴史上重要な人物が触れてはいけないものとして扱われるようになれば、無理解を再生産することになる。負の歴史も見据えながら、より深く知識を学ぶことが表現の自由を守り、文化・芸術を豊かにする」。
このコメントについて、少し補足をしたい。
今回の問題は、日本から発信される作品が、世界で鑑賞されることを前提に、その「ポリティカル・コレクトネス」を吟味される時代になったということだ。これは裏を返せば、日本の作品の国際的認知度が高まり、多くのファンや一般視聴者がそのレベルで各作品を観るようになっているということで、そこに一般社会の鑑賞リテラシーの成長を見てもよいのではないだろうか。アーティストや関係者が文化教養リテラシーの面で追いついていなかったとすればそのリテラシー不足について、あるいは、敢えて論争を引き起こす挑戦的な作品を世に問いたかったということであれば、表現がそのレベルに届いていないという表現力不足について、社会がダメ出しをしたわけだが、このダメ出しは本来ならば、関係者の中で行われるべき精錬作業である。だから、このダメ出しは、単純な否定のダメ出しとして終わらせず、ともに成長するためのプロセスとしてとらえることができれば、と思う。
大切なのは、アーティストをこれで一発アウト・再起不能の状態に追い込むことではなく、こうした事例をきっかけとして、アーティストと社会がともに成長し、ともに文化の土壌を耕していくことだと思う。
考えてみると、日本社会は、《負の歴史》に向き合うよりは、話題にしない、タブー視する、という姿勢をとりがちな社会である。今回の件は、アーティストや関係者の見識不足を指摘してすませるべき問題ではなく、そこで必要だったはずの「見識」を習得する機会が、そもそも日本社会には欠けている、あるいは抜け落ちてきている、という問題としてとらえるべきではないだろうか。私たちが得るべき《気づき》は、このことなのではないだろうか。
このことを無視したまま、たとえば「コロンブスを題材とした表現は炎上するからNG」といったふうに、問題となった表現の表層をとらえて反射的にタブー視するのでは、得るべき《気づき》は得られず、表現の世界がまた一歩、萎縮してしまう。むしろ、人類が共有する《負の歴史》について深く知ることができれば、あるいは深く知りたいという気持ちを持つことができれば、ここで紹介した2本の映画も、「暗い、楽しくない、残酷なシーンがあるからNG」、という皮相的な感想を超えて、高い受け止め方がされていくだろうし、論争的な問題をこのレベルの認識をもって描くならば、NGどころか世界的に高い評価を受ける芸術作品になっていくのである(筆者は暗い深刻なトーンの作品にすればOKと言っているのではなく、そこに織り込まれた認識が、鑑賞者を納得させるレベルのものであることが必要だ、と言おうとしている)。
今回の件を機に、アートやエンタテインメントに必要な《教養》の意味が理解されると同時に、社会全体の課題として、《負の歴史》に向き合うことの大切さが理解される方向に向かってほしいと思う。そうした意味で、この件が、社会とアーティストの両方に《気づき》を起こした事例として今後のポピュラー文化の発展にとっての「耕しの鍬」になることを願う。