どうして…関ヶ原の合戦で勝敗を分けた「小早川秀秋」の悲しすぎる叔父・豊臣秀吉との因縁とは
約400年前の1600年、150年間続いた戦国乱世に終止符を打つ天下分け目の決戦「関ヶ原の合戦」が勃発しました。西軍と東軍に別れ、それぞれ石田三成と徳川家康が総大将を務めた世紀の一戦です。
この戦いで勝敗の鍵を握ったのは、実力でも戦力差でもありませんでした。
それは、西軍側の重鎮であった「小早川秀秋」が最初に起こした裏切り行為だったのです。
・小早川秀秋とは
小早川秀秋(以下、小早川)は、1582年に木下定家の五男として誕生。木下定家は豊臣秀吉の正室・高台院の兄であり、小早川と豊臣秀吉は甥と叔父の関係でした。
小早川が3歳(1585年)のときに豊臣秀吉の養子となりますが、1594年に血縁関係をもつ後継ぎの豊臣秀頼が生まれたことで養子縁組を解除されます。
以降は小早川隆景の養子となり、1600年「関ヶ原の合戦」では西軍側の敗北に直結する原因をつくりました。合戦後は備前国美作国(現在の岡山県美作市)51万石を授与され、漆黒の名城「岡山城」の城主に任命されています。
・裏切りの理由
豊臣秀吉は正室・側室を10数名、現地妻の女性はそれ以上の数を召し抱えていましたが、子供には恵まれませんでした。そのため養子を迎えては後継者としての厳しい教育を施していたのですが、老齢を迎えた頃に実子・秀頼が誕生します。実子に全権力を相続させたかった豊臣秀吉は、養子の存在を疎ましく思うようになり、もともと優秀でお気に入りだった養子・秀次(元・甥)でさえ切腹を命じたほどです。
小早川も後継候補のひとりとして厳しい教育を施されましたが、豊臣秀吉の自己都合により見捨てられてしまいます。
小早川が関ヶ原の合戦で裏切った理由は諸説あり、現在も不明とされる戦国ミステリーですが、一説では豊臣秀吉に見捨てられたときの恨みがあったのではないかともいわれているのです。
また通説では、合戦前に徳川家康が西軍陣営の中枢を担う人物に息を吹きかけており、いつまで経っても行動しない小早川を徳川家康が鉄砲で脅し、小早川の尻に火をつけて西軍へ突撃させたというエピソード「問い鉄砲」があります。
その後、小早川の謀反を皮切りに次々と寝返るものが続出。西軍の中枢を担った大谷吉継は自刃し、総大将の石田三成も無念の敗北を喫しました。裏切りの「下剋上」ではじまった戦国時代は、ひとりの裏切りにより終結を迎えたのです。
実際に歴史ドラマが繰り広げられた「関ヶ原古戦場跡(関ヶ原地域一帯)」には、小早川秀秋・徳川家康・石田三成をはじめ、西軍の中枢・大谷吉継や最後まで抵抗を続け急死に一生を得た島津義弘など、魅力的な武将にまつわるスポットが点在しています。ぜひ足を運んでみてください。