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『ドラフト、トライアウト……思い出す老スカウトと、ひとりの投手』

木村公一スポーツライター・作家
ドラフト会議場。多くの球児たちが、この扉の向こう側に夢を馳せる。

解雇と、ドラフト指名を受けた新人選手の話題が交錯するこの時期。私には、いつも思い出す人の言葉がある。

「プロ野球いう世界は、頼まれ、頭を下げられて入る世界(ところ)じゃ。自分から“入れてください”言うて入るところじゃありゃせん」

彼、木庭教(きにわ・さとし)は、口癖のようにそう言っていた。

プロを夢見た青年のこと

もう何年前のことになるだろう。知人を通じて、あるアマチュア出身の投手を台湾のプロチームでテストさせられないか、という相談が舞い込んできたことがあった。韓国や台湾に取材で訪れ、多少の人間関係が出来ていたためか、当時、そうした相談、問い合わせはオフになるたびにあった。しかし多くは日本のプロ野球を解雇され、次なる仕事場を求めての話で、アマの選手というのは初めてだったと思う。

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その投手(ここではS君とさせて戴く)とは、まったく面識がないわけではなかった。前年の夏、ルーキーリーグでプレーする若い日本人選手を取材するため、フロリダを訪れた際に会った中の一人だった。野茂英雄や伊良部秀輝がメジャーに進出したあとの頃、日本のアマ出身者がマイナーリーグに挑戦する、いわば“はしり”のような時期だった。

フロリダの安い日本料理店で、他の選手や日本人スタッフらと食事をともにした。身長も185センチはあっただろうか。恵まれた体躯で、その取材期間に彼のピッチングを見ることは出来なかったが、ややスリークォーター気味で140キロ近い球速を出している、と関係者は話した。聞けば高校、大学とも野球では名の通った日本の学校出身だった。プロのスカウトの目にもとまったようだが、ドラフトで指名されることはなかった、と彼は言った。

「実績がないんで、ドラフトの前にテストを受験するように言われたんですけど、いつも最終かその前くらいで落ちてしまって」

バツが悪そうに苦笑しつつ、ボソボソと喋る彼は、見るからに穏やかそうな人柄だった。どちからといえば、プロ向きでない性格。よく例えにされる、人を蹴落としてでも這い上がってやる、といった性格には感じられなかった。

彼は、そのルーキーリーグに至るまでの経緯を話してくれた。高校ではエースだったが、2年時にヒジの故障で他の投手にエースを譲ったこと。大学では1軍に入れず、2軍で悶々としていたこと。卒業後には社会人野球に進んだが、人間関係の問題で退部、退社したこと。そしてその間に、何度か経験した腰、肩などの故障。それでも野球が続けたい。

そんなときに人を介してアメリカに野球学校があることを知った。そこでプレーすれば、メジャーのスカウトの目に止まることもあるという。ならば、と一縷の望みを携えて、アメリカに活路を求めた。そのときのルーキーリーグに入る前には、アメリカ中部の独立リーグのテストを受け、合格してプレーもしていたという。

「どれだけやれるかは分からないですけど、可能な限り挑戦していきたい」

そう話す彼は野球に飢え、そして野球というもの対して、素直に対峙していると感じられた……。

夢を見るのも結構だが……。

だから、知人を介して台湾でテストを受けられないかと相談を持ちかけられたとき、むげに断る気にはなれなかった。台湾のテストを考えているということは、言い換えればアメリカでのチャンスがなくなったからと考えるのが自然だ。しかし同時に、懸念も残った。

それは彼が、すでに28歳になっていたことだった。大学、社会人を経てアメリカに渡り、独立リーグまで経験していれば、その年齢に達していても不思議はなかった。だが主たる実績がなくテストを受ける身にとって、28歳という年齢は、ハンデにこそなれメリットはない。

どうしたものかと思案していたとき、私は懇意にして貰っていた人物にS君の話を向けた。

彼の名前は木庭教といった。昭和30年代初期から広島カーブのスカウトを務め、衣笠祥雄や達川光男、金城基泰らを獲り、黄金期のカープを支えてきた人物のひとりだった。その当時は、カープを“卒業”し、横浜を経てオリックスのスカウトをしていた時期だった。

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受話器の向こうの彼は、一笑に付すような口調で、こう言った。

「そんなん手伝うなんて、やめい」

たしなめられることは、半ば想像はしていたが、木庭の反応は想像以上に冷徹だった。

「プロのスカウトの目に、そう間違いはない。たとえ球団が違うても、プロで使える選手かどうかという一線を見る目は、どこのスカウトでも持っとるもんじゃ。その子は何度もテストを受けたが、最後には落ちた言うんじゃろう。多少の運、不運もあったろうが、落ち続けたのは、その子にはプロに入るための絶対的ななにかが欠けているからなんよ」

そんな子が、もし台湾に行ってテストを受け、万一、合格したとしても、プレーし続けることにどれだけの意味があるのか。木庭は、そう続けた。

絶対的な、なにか。その言葉は、ズンと重く、心にのしかかった。それでも当時の私は木庭の言葉に抗った。抗いたかった。野球選手とはプロであれアマであれ、恵まれた能力を持つ、いわば特権を有する者。その特権を肉体という限りある間に燃え尽くすことにも、意味があるのではないか。環境が許すならば、そうして夢を追い求めてもいいのではないか。

すると木庭は、言った。

「夢を追い求めるのも結構じゃが、夢だけで入られたら、たまらんぞ」

木庭は、受話器の向こうで笑った。

「いいか、プロ野球いう世界はなあ、“是非、来てください”と頭を下げられて、はじめて入る世界(ところ)なんじゃ。自分の方から“入れてください”言うて入るところじゃありゃせん。もちろん、子供の頃に夢を持つのは大事なこと。しかしプロに入る瞬間、夢が商売になるということに気づかにゃいかん」

プロ野球という世界は、夢の舞台であると同時に、プレーする者にとってはこれ以上ない現実の世界。それを見誤れば、どんなに才能を有した者でも、埋没し、消えていく。

「夢で入りたがるから、やれ“あの球団がいい”とか“あの球団は嫌だ”とか言うンよ。そうやって入団するとき騒がれ、注目された選手が、数年後にどれだけ消えていったか」

木庭は続けた。もしその子に、プロに入るだけの才能があったら、とっくに声がかかっとる。嫌でも入ってください言うて誘われとる。

「その子は、いくつになる?」

私は正直に答えた。

「28歳にもなるなら、夢を追いかけるより、第二の人生を考える方が賢明じゃろう。そそのかすより、むしろ言って聞かせることの方が、その子のためなんじゃないか?」

尤もとだと思いつつ、それでも私はS君に、野球選手という世界に、まだ夢を見たかった。私自身もまた、若かった。

結局、S君は私ではなく別の人物の紹介で台湾に渡り、およそ3ヶ月で解雇された。プロの実績がない外国人投手は、プロ出身者以上に過酷な立場だった。

数ヶ月後、私はS君の実家に電話を入れた。解雇の後、日本に戻っていたことまでは聞いていたが、その後が気になっていた。実家が商売をしていて、その手伝いをしながら仕事を覚えるかも知れない、とも聞いていた。

電話には、S君の母親が出た。尋ねると、思いもよらぬ返事が返ってきた。

「息子なら、今、アメリカのテキサスの方に行っています。先日、電話があり、なんでも独立リーグのテストをまた受けるために、何チームか廻っていると聞きましたが」

母親の言葉を聞きつつ、私の脳裏にレンタカーを繰って広大な道を走るS君の姿が浮かんだ。台湾を解雇されたあと、どのような心の流れで再びアメリカの独立リーグに再チャレンジするようになったのか。それは、わからない。それにもう1歳、年齢を重ねた立場を、S君が理解出来ていないはずはない。ならば、なぜ。

あるいは辞めるために、辞めるキッカケを求めて、再チャレンジを続けているのではないか。ふと、そんな想いが過ぎった。感傷に過ぎるかも知れないが、正直、そう思った。

あれから、ずいぶんと月日が経った。

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スポーツ新聞では、花巻東の大谷翔平投手の去就が取り沙汰されている。その一方で、ユニフォームを脱ぎ、第二の人生を歩もうとしている元選手の話題が載っている。

冬枯れのこの時期は、複雑な想いが過ぎってならない。

スポーツライター・作家

獨協大学卒業後、フリーのスポーツライターに。以後、新聞、雑誌に野球企画を中心に寄稿する一方、漫画原作などもてがける。韓国、台湾などのプロ野球もフォローし、WBCなどの国際大会ではスポーツ専門チャンネルでコメンテイターも。でもここでは国内野球はもちろん、他ジャンルのスポーツも記していければと思っています。

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