【九州三国志】鎌倉武士たちの栄華と試練!島津忠久から貞久まで、動乱に挑んだ一族の物語
時は鎌倉時代、武士の時代が始まったばかりの頃。
源頼朝による統治のもと、一族の未来を築いた少年がいました。
その名は島津忠久。元暦2年(1185年)、彼はわずか6歳で日本最大の荘園・島津荘の地頭職に任命されたのです。
以降、薩摩・大隅・日向の守護職を次々と手に入れ、10歳の若さで奥州征伐に従軍するなど、鎌倉幕府内でも特別な地位を築きました。
しかし、建仁3年(1203年)、頼朝亡き後の政争に巻き込まれ、一時はその地位を失いますが、後に守護職を回復し一族の礎を固めていったのです。
忠久の息子・忠時は、承久の乱で幕府方の主力として大いに武功を挙げ、さらなる領地を得ました。
彼が用いた太刀「綱切」や大鎧は、島津宗家の宝物として後世に伝えられています。鎌倉時代を通じて島津一族はその力を拡大し、やがて幕府内で筆頭御家人にまで昇り詰めます。
しかし、鎌倉に居を構える当主たちとは裏腹に、一族や家臣は現地の実務を担い、次第に薩摩の地に根を下ろしていきました。
南北朝時代になると、島津氏は幕府の衰退と倒幕の動きの中で新たな選択を迫られます。
5代当主・島津貞久は、後醍醐天皇の討幕運動に参加し、鎮西探題を攻略。
しかし、建武の新政崩壊後は足利尊氏に与し、多々良浜の戦いでは天皇方と激突するなど、九州での激動を駆け抜けました。
さらに、南朝勢力の侵攻に苦しみながらも、貞久は幕府に復帰し、晩年には島津氏の正統性を強く訴えたのです。
この信念は後世にわたり、島津一族の誇りとなっていきました。
貞久亡き後、島津氏は内部分裂の道をたどります。
嫡男の早世により、次男と三男が薩摩・大隅をそれぞれ分割して継承。
共通の敵と戦う間は結束していましたが、外敵が去ると対立を深めていきました。
それでも、島津氏は九州の地で勢力を維持し、その名を歴史に刻み続けたのです。
波乱に満ちた島津一族の物語は、武士の誇りと矜持、そして分裂と和解のドラマそのものでした。
彼らの足跡は、今日の日本史においても重要な教訓を残しています。