【九州三国志】砲声が轟く、大友宗麟とフランキ砲!国を崩すか、守るか―戦国時代の大砲伝来の物語
1576年(天正4年)、宗麟はポルトガル人宣教師を通じてインドのゴアからフランキ砲を輸入しました。
この砲は本来艦砲用として設計されたものの、宗麟の手によって陸上戦にも活用されることになります。
輸入されたフランキ砲はその威力から「国崩し(くにくずし)」と名付けられ、宗麟の居城・臼杵城の防衛において重要な役割を果たしました。
特に島津氏の猛攻を受けた臼杵城籠城戦では、その巨大な砲弾が敵軍を驚かせ、防衛の一助となったと言われています。
フランキ砲の構造は、砲尾に装填筒を挿入し木製のペグで固定するというシンプルなものです。
速射性に優れる反面、密閉性が不十分でガス漏れが多く、事故も頻発しました。
そのため、西洋では16世紀末に姿を消したものの、火砲技術が未発達だったアジアでは長く使用されたのです。
宗麟が導入したフランキ砲も、後に「自国を崩す」という不吉な意味を持つとして家臣に嫌われたという逸話が残ります。
宗麟の死後も「国崩し」は臼杵城の本丸に配備され続け、明治初頭には国へ献上され、現在は靖国神社の遊就館で見ることができます。
また、臼杵城跡や大分市歴史資料館にはその複製が展示されているのです。
さらに、ロシアのクンストカメラに展示された1門も大友宗麟が使用したものとされており、戦国時代の技術の光と影を今に伝えています。
この大砲がもたらしたのは単なる軍事技術ではなく、戦国時代を生きた武将たちの葛藤と戦略、さらには「異国の力」に対する複雑な心情だったのかもしれません。
宗麟のフランキ砲は、歴史の中で日本と西洋が交わった象徴的な存在として、今もなお興味を引き続けています。