【熊本地震】炊き出しに義援金、無償治療 127年前の人々も相互扶助の精神で困難を乗り越えた
2016年4月に発生した「平成28年熊本地震」では、被災地内外から支援の手が差しのべられ、多くの被災者が救われた。今回の地震から127年前の「明治熊本地震」でも同様に、炊き出しや義援金など、相互扶助の精神で地震を乗り切ったことが、現代語訳版「熊本明治震災日記」(水島貫之編纂)から読み取れる。
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医療や炊き出しの支援は「明治熊本地震」でも
「明治熊本地震」は、明治22(1889)年7月28日深夜、熊本市の金峰山付近を震源に発生した。マグニチュード(M)は推計で6・3。地震により21人が死亡、200棟以上の建物が全壊した。さらに、その6日後の8月3日午前2時すぎにも、激しい揺れが熊本を襲っている。
「平成28年熊本地震」では、県内外の医療機関や支援団体が被災地入りし、医療や炊き出しなどの支援にあたった。「明治熊本地震」でも、多数の死傷者が出たことから、同様の支援が積極的に行われたようだ。同日記では、当時の新聞報道を引用する形で、その様子を記録している。
7月31日付の熊本新聞の記事によると、川尻地域の寺の本堂では、医師らが負傷者の診察にあたり、費用は関係機関が負担した。また、7月31日付の九州日日新聞では、熊本市の北坪井周辺では被害が大きく、家屋が大破した事例が相次いだことから、炊き出しが行われたという。
7月30日に新聞各紙が一斉に報じたところによると、第六師団軍医部から、今回の地震に伴う救護の必要があれば、若干の軍医を派遣させても差し支えないと、熊本県庁に申し出があった。
また、熊本新聞の記事によると、熊本の3つのキリスト教の教会は、臨時救護病院の設立を決定。県外のキリスト教徒らも賛成し、熊本県庁に、その設立趣旨を届け出たという(その後、救護病院の必要性が薄れ、設立は見送られた)。
海西日報の記事によると、熊本市迎町のある男性は、震災が原因で傷を負った患者らの治療にあたり、「貧者には施術代も薬代も請求しなかった」という。
127年前も義援金が集められた
同日記で多くの紙面が割かれているのが、金銭面の援助についての動きだ。例えば、4新聞社などが発起人となって集めた義援金について、各地から続々と支援の申し出があったことを受け、受付期限が延期された。また、旧小倉藩主・小笠原忠忱は、金百円を、旧熊本藩主を通し熊本県知事に寄贈した。
ある男性は、県内各地で義援金の拠出を呼びかける遊説を実施。同時に、熊本新聞に「自分に賛同し拠出をいただけた場合は、これをとりまとめて、村長もしくは群市長の手に託し、県庁に差し上げてこれを不足している備荒儲蓄金(びこうちょちくきん=災害等の対処のため設けられた救済金)に充てることを願い出るのはどうだろうか」などとする、趣意書を寄稿している。
同日記を編纂した水島は、この行動について、「(彼が)この活動に心血をそそぎ、精神を奮って、各地の人々に勧告された言葉は、適切であって聴く者や見る者を感泣させたと言っても決して偽りではない」と絶賛。後世の模範にも参考にもなりうるものだと述べ、こうした義援金を募る動きの定着を期待している。
「相互扶助の精神はいつの時代もあった」
同日記を出版した、熊本市都市政策研究所の植木英貴副所長は、「こうした相互扶助の精神は、いつの時代もあったのだろう。さまざまなエピソードが収録されており、水島が記録として残しておきたかった部分だと読み取れる」と分析している。
同日記で水島が紹介する、人の良心を紹介する描写は、枚挙にいとまがない。地震直後の混乱で各金融機関が一斉に休業する中、通常業務を続けていた銀行。馬車や人力車の運賃が急騰する中、自前の荷車を雇い品たちに引かせ、知人らの荷物を無償で運搬した米商人。大小数個の仮小屋をこしらえ、知人らに避難所としてあてがっただけではなく、三度の食事も炊き出しして振る舞った染物業の男性。
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デマを流して被災者を苦しめる人間もいれば、手を差しのべる人間もいる。こうした人間の「二面性」を、水島は後世に伝えたかったのかもしれない。