「どうする家康」実は明るく陽気だった、徳川家康の意外な性格
大河ドラマ「どうする家康」では、おどおどした性格の徳川家康であるが、実は明るく陽気だったといわれている。今回は、そうした家康のエピソードを紹介しよう。
『岩淵夜話集』という後世に成った書物には、徳川家康と能楽にまつわるエピソードが書かれている。京都の聚楽第で、豊臣秀吉の主催による能が興行されたときの話である。秀吉は「能狂い」といわれるほど、能に傾倒していた。
秀吉が少し変わっていたのは、能を鑑賞するだけでなく、自ら演じて見せることだった。加えて驚くべきは、配下の大村由己に命じて、自身の生涯を能として制作させたことである。『明智討』、『柴田討』、『北条討』は、その代表作である。
能が興行されたとき、参加した諸大名は秀吉の命により、それぞれが演じて見せた。織田常真、同有楽は、なかなかの名手だったといわれている。常真が「龍田の舞い」を舞って見せると、諸大名はその見事さに感嘆したという。
実は、家康も能を愛好しており、能を演じて見せたのだが、いささか難があった。家康が演じて見せたのは、「船弁慶」の源義経である。「船弁慶」とは、平家の滅亡後、兄の頼朝と決裂した義経と弁慶の逃避行を描いた作品である。
当時、家康はなかなかの肥満体だったといわれている。一方、義経は幼い頃に「牛若丸」といわれたほどで、弁慶の攻撃を軽々とかわした逸話がある。つまり、義経は痩せていて軽快な動きで知られていた。それゆえ、家康が演じるには、少し無理があったのだ。
しかし、家康は臆面もなく、義経を演じて見せた。案の定、家康が演じる義経は、とてもイメージに合わず、その舞いも見事とはいえず、諸大名は大爆笑したという。家康はあまりの肥満で自分で下帯を締められず、侍女の助けを必要としたのだからお粗末だ。
とはいえ、当の家康は大変ご機嫌で、義経を演じて、大いに楽しんだというのである。社交の場ということもあったが、家康が実に愉快で、明るく陽気だったことを示す逸話である。