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「不登校」から被災地ボランティアに 22歳の若者が東日本大震災から8年で考えたこと

若林朋子北陸発のライター/元新聞記者
津波の被害が大きかった福島県浪江町請戸地区に植樹された松(石原壮一郎さん撮影)

 富山市の専門学校生、石原壮一郎さん(22)は、東日本大震災の被災地支援をきっかけに「不登校の自分」を変えることができた。2011年4月から地元ボランティア団体の活動に参加し、以後50回近く被災地へ足を運んでいる。今年3月上旬にも福島県の南相馬市、浪江町、富岡町を訪ねた。「物理的な復興は、まだまだ。でも、被災者の目線は、未来を見ている気がする」と石原さん。大震災から8年、自身のボランティア経験と、被災地の「これから」について聞いた。

石原さんは現在、趣味で始めた写真や映像をスキルアップさせたいという。すでに1年ほど前からフリーランスのカメラマンとして活動している(筆者撮影)
石原さんは現在、趣味で始めた写真や映像をスキルアップさせたいという。すでに1年ほど前からフリーランスのカメラマンとして活動している(筆者撮影)

「自分は何ができるか」を必死で考えた

 石原さんの被災地支援は、富山市のボランティア団体「東北エイド」(代表:川渕映子さん)が運行していた「被災地支援バス」に参加したのが、きっかけだった。

 当時は中学3年で、両親が離婚し、母・妹・弟と暮らしていたものの、反抗期のまっただ中。学校では友達とうまくコミュニケーションを取ることができず、中学1年の2学期からずっと自宅に引きこもっていた。ボランティアは母の知人に誘われ、「『1回だけ行ってみるか』という気持ちだった」と話す。しかし、東北へ足を運び、衝撃を受けた。その後、多いときは週1回のペースで被災地へ通い続けた。

「石巻市の光景を見て、目が覚めた気がします。船が家の上に載っていて、バスを降りると魚の腐敗臭がしました。炊き出しで出会った高齢者女性から『家も、家族も、財産も流されてしまった。自分も流されてしまえばよかった』と聞いたとき、『自分は何ができるか』と必死で考えました」

 被災地支援バスは毎回、宮城県石巻市内を中心に移動し、東北エイドのメンバーは行く先々で支援物資や義援金を手渡して、炊き出しや追悼行事などを行った。運行は14年11月末の32便まで続き、中学生の石原さんが大人に混じって作業していると、被災者から「頑張れ」と言われることも多かったという。東北エイドのメンバーとは、信頼関係を育むことができた。

「引きこもっていたときは苦しかったけれど、そのままでいいとは思っていなかった。変わりたいと思っていました。だから一歩を踏み出せました」

運んできた支援物資を下ろす(右から)石原さん、小林さん、川渕さん。2012年7月、石巻市内(筆者撮影)
運んできた支援物資を下ろす(右から)石原さん、小林さん、川渕さん。2012年7月、石巻市内(筆者撮影)

1人でもできることをやり続けよう

 石原さんが師と仰ぐのは、東北エイド代表の川渕さん。パワフルなリーダーで、「アジア子どもの夢」という海外支援を目的としたNGOの代表でもある。リサイクル資源を集めて換金したり、フリーマーケットに参加したりして活動資金を得る。災害が起これば国内外問わず、被災地へ義援金と支援物資を持って駆けつける活動を30年以上続けてきた。

※参考

「災害支援30年…“ボランティアおばちゃん”が指南する『超実践的支援活動』」

https://dot.asahi.com/dot/2016051300158.html

 石原さんが胸に刻んだ川渕さんの言葉がある。「ボランティアは1人でもできる。でも、できないことに手を出してはダメ。1人でもできることだけをやり続けよう」。一方で、川渕さんが築いた人のネットワークに敬意を抱いている。複数の人が自発的に動くと相乗効果によって大きな力になると学んだ。自分と他者との距離をうまく取ることができるようになっていった。

 また、川渕さんと同じくらい影響を受けたのが、富山市で「ふっこうのおと」というボランティア団体を立ち上げて活動する小林仁さんである。石原さんが通信制高校に通っていた2012年春からの5年間は、造園業を営む小林さんの会社で働きながら、ボランティア活動を続けた。社会人としての礼儀や会社経営について学んだという。

支援物資を被災者に配る石原さん。2012年7月、石巻市内にて。この時期はボランティア活動に没頭し、笑顔も戻った(筆者撮影)
支援物資を被災者に配る石原さん。2012年7月、石巻市内にて。この時期はボランティア活動に没頭し、笑顔も戻った(筆者撮影)

失われた命の大切さを知り、生き直すことができた

 石原さんは、10代前半に抱えていた不登校、引きこもり、反抗期、親子の断絶などの課題を、どうやって乗り越えたのだろうか。

「ボランティアによって、少しずついろんな人と話せるようになりました。そうすると家族とも会話できるようになりました。東日本大震災が起こるまでの自分は、生きているのか死んでいるのかわからないような人生でした。失われた命の大切さを知り、生き直すことができたと思います」

 13年には学生が連携してボランティア活動を支援する団体「STUDENT FORCE(スチューデント・フォース)」を立ち上げた。「以前の自分からは想像もつかないこと」だという。海外の紛争地や被災地の子どもたちに文房具などを支援する「募ペン」などの活動に取り組んだ。東北や海外の被災地を支援するボランティアを通じて、人のつながりを広げていった。

富山市内で開催された東日本大震災の復興支援イベント。石原さんは小林さん、川渕さんと裏方として催しを支えた(筆者撮影)
富山市内で開催された東日本大震災の復興支援イベント。石原さんは小林さん、川渕さんと裏方として催しを支えた(筆者撮影)

 16年春に富山市立富山外国語専門学校へ進学、同年には友人らと5人で社団法人を立ち上げ、コワーキングスペースを運営するビジネスを始めた。人が集う場をつくり、そこから「いろんなボランティアやビジネスが自然発生していけばいい」という思いだった。ボランティアの経験を生かしての挑戦である。しかし、学業・ビジネス・ボランティアといろんな活動を同時進行で行い、多忙を極めるなか、過労から心身を病んでしまった。川渕さんからは「無理をしてはいけない」と諫められたという。

「自分が何とかしなければという責任感があった。野心や欲、焦りも。中学時代、不登校だった自分に劣等感を抱いていたのかもしれません。だから無理してしまった」

東北と被災者の方に育てられた

 石原さんは休養を経て学校に復帰し、今春、専門学校を卒業した。「募ペン」や東北支援など「1人でもできること」を続けている。

富岡町の富岡第2中前にある桜並木。帰還困難区域内にあり、例年バスに乗っての観覧が行われる(石原さん撮影)
富岡町の富岡第2中前にある桜並木。帰還困難区域内にあり、例年バスに乗っての観覧が行われる(石原さん撮影)

 

 今年も3月上旬、石原さんは小林さんと福島を訪ねた。趣味で始めた撮影のスキルを生かし、3月11日に富山市内で開催する復興支援イベントのために被災地の映像や写真を撮った。復興はまだ途上であり、支援は必要な状況だという。しかし、作品はいずれも前向きで、明るい。

「8年間でいろんなことがあった。でも被災地の方は、もっといろんな思いをしています。ボランティアを通じて苦しさを乗り越える強さを学びました。東北と被災者の方に育てられたと思っています」

 石原さんは、こう言う。「微力は、決して無力ではない」。8年間、ボランティアを続けてきたからこその実感である。

北陸発のライター/元新聞記者

1971年富山市生まれ、同市在住。元北國・富山新聞記者。1993年から2000年までスポーツ、2001年以降は教育・研究・医療などを担当した。2012年に退社しフリーランスとなる。雑誌・書籍・Webメディアで執筆。ニュースサイトは「東洋経済オンライン」、医療者向けの「m3.com」、「AERA dot.」など。広報誌『里親だより』(全国里親会発行)や『商工とやま』(富山商工会議所)の編集も。富山を拠点に各地へ出かけ、気になるテーマ・人物を取材している。近年、興味を持って取り組んでいるテーマは児童福祉、性教育、医療・介護、動物愛護など。魅力的な人・場所・出来事との出会いを記事にしたい。

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