冨田勲が戦後社会に残した遺産――五輪開会式聖火点灯での楽曲使用を機に考える
聖火点灯で流れた『ドクター・コッペリウス』~「日の出(Rising of the Planet 9)」
2021年7月23日に開催された「東京2020オリンピック競技大会」開会式で、聖火点火の瞬間に流れていたのは、冨田勲の「スペース・バレエ・シンフォニー『ドクター・コッペリウス』~「日の出(Rising of the Planet 9)」」だった。
冨田勲は、1932年に生まれ、2016年に84歳でこの世を去った、シンセサイザーによる日本の電子音楽の第一人者だ。慶応義塾大学在学中から作曲家として活躍をはじめた彼は、モジュラー式のモーグ・シンセサイザー(その外観から『タンス』と呼ばれることになる)を個人輸入して音楽を制作しはじめたことで、世界的な注目を浴びる存在になっていく。
1974年にはシンセサイザーによる『月の光』でビルボードにチャート・インし、1975年に日本人として初めてグラミー賞にノミネート。1975年の『展覧会の絵』『火の鳥』もビルボードにチャート・インを果たし、その人気は世界的なものになっていく。手がけたテレビドラマ、舞台、アニメーションの音楽も数多い。
その後も長く第一線で活躍し、2011年には宮沢賢治の作品世界を題材にして初音ミクをソリストに起用した『イーハトーヴ交響曲』の初演が行われた。
2021年7月21日には、生前5年間に日本コロムビア・DENONレーベルに残した音源から編集した『日の出~冨田勲 DENONベスト作品集』がサブスクで全世界配信されたばかりだった。
「進駐軍の放送を夢中になって聴きましたね」
その冨田勲のもとを、インタビューのために私が訪れたのは2014年3月のことだった。「MUSIC MAGAZINE」2014年4月号から引用したい。当時81歳の冨田勲と41歳の私の会話である。
そして、冨田勲が自身の原点として語っていたのは、敗戦後に聴いた進駐軍ラジオからの音楽だった。
若輩者にも寛容な態度で接してくれ、戦時中から当時までのさまざまなエピソードを語ってくれた冨田勲がこの世を去ったのは、この取材の約2年後のことだった。
冨田勲が生きていたらなんと言っただろうか
生前の冨田勲は、2020年の東京オリンピックで自身の音楽が使われることを望んでいたとも聞く。その願いは開会式で叶ったが、日本のサブカルチャーのつぎはぎのような、そして辛気臭さの抜けない開会式を、もし冨田勲が生きて見ていたらなんと言っただろうか。これでは日本のサブカルチャーの葬式である。
前述のように、冨田勲の音楽の原点は敗戦後にあった。そして、私たちがオリンピックという事象を通して現在見ているのは、すべて戦後日本社会に長く内在していた問題である。その反省を私たち自身も迫られる。サブカルチャーはもはや権力との闘争という重大な使命を忘れてしまったらしい。そして、第二次世界大戦での敗戦へと突き進んだ時代から、為政者たちのメンタリティは変わっていないようにも見受けられる。私たちはまだまだ終わらない「戦中」「戦後」のなかにいることを感じるのだ。
聖火あるいはすべてを焼き尽くす業火が点灯されたとき、冨田勲の音楽は、「TOKYO2020」開会式という曖昧模糊とした式典のなかで、まるで一瞬の聖域のように響いた。それは、「TOKYO2020」を実現させた、1964年の東京五輪への強烈なノスタルジーとは異質な、今なお鼓動が伝わるものだったからだろう。