今や定番のモツ鍋 1992年に起きた爆発的ブーム、一体なにが?
寒さが一段と厳しくなり、鍋料理のおいしい季節がやって来た。スーパーの調味料売場には、和洋中さまざまな味付けの鍋つゆ、鍋の素がずらりと並び、家庭での鍋料理が多様化していることを実感する。この鍋料理多様化への扉を開いたのが、博多名物のモツ鍋だった。
昔は決まったものしかなかった鍋料理
昭和の終わりの1980年代は、バブル経済に向かう好景気の真っ只中でグルメブームが続き、食の国際化、高級化が進んだ。だが、鍋料理に関しては家庭料理の枠を出ず、外食ではこれといった大きな動きが見られなかった。鍋料理がまだ家族で囲む団らん料理としてだけ愛されていた時代だった。
それぞれの土地の産物を活用し、作りながら好きなようにカスタマイズできる鍋料理は、日本料理のなかでもとりわけ「我が家の味」と「郷土の味」がしっかりと守られてきた、保守的な料理だったといえる。
戦後、広島の「カキの土手鍋」、北海道と東北の「ジンギスカン鍋」、秋田の「きりたんぽ鍋」が全国に知れ渡って人気を得るといった現象があったが、やっぱり家庭の鍋料理の中心は、すき焼き、水炊き、寄せ鍋、そして各人各地の郷土鍋と、決まったものが中心だった。
鍋料理の枠を打ち破った爆発的ブーム
1992年に突如として起こったモツ鍋の爆発的なブームは、そんな鍋料理の枠を打ち破る出来事だった。
第2次大戦後の食料欠乏期、安い値段で手に入る牛や豚の内臓類を使った煮込みは全国のヤミ市で人気商品となり、やがて「モツ煮」や「ホルモン焼」と呼ばれ、各地のソウルフードとして定着した。
大ブームになったモツ鍋は、博多が発祥地。牛モツ(大腸、小腸、胃など消化器を中心に、心臓を使う店も)の上にニラとキャベツを山盛りにして、ニンニクと赤唐辛子をきかせ、スープで煮ながら食べる。スープは醤油味が原型だが、味噌味、塩味などのバリエーションもある。しめはチャンポン麺が定番だ。
モツ鍋はまずバブル全盛期の2、3年間で福岡市内に専門店が100軒以上できるほど人気を呼び、関西、そして東京に飛び火した。
熱狂的に受け入れたのは若い女性たち
1980年代中盤からのエスニックと激辛料理の普及で辛さになれた舌に訴えかける唐辛子の刺激と、モツ、ニラ、ニンニクという個性の強い材料の組み合わせ。従来の鍋料理にはない新しい味は、熱狂的に受け入れられた。
当時はバブルが崩壊し、景気後退に入っていく時期だったので、安い材料をおいしく食べられるモツ鍋は、時代の空気にも合っていた。
モツといえば居酒屋や屋台でホッピー片手につまむ、安くて旨い労働者の味方、のはずだったが、博多モツ鍋の店には男性客以上に若い女性客が詰めかけた。モツ鍋は、女性が作ったブームといってよい。
アメニティグッズを揃えた飲食店の先駆け
東京のモツ鍋専門店は、モツの泥臭いイメージからかけ離れたおしゃれ感を打ち出した。東京初の専門店で、ブームの仕掛け役になった銀座の「もつ鍋元気」のインテリアはニラと赤唐辛子の色から緑と赤のツートンカラーで、テーブルは黒とスタイリッシュ。
開店当初から女性客を意識し、モツが高たんぱく・低脂肪・低カロリーのヘルシーフードであることを解説した冊子を入り口に置き、トイレには使い捨て歯ブラシを常備した。アメニティグッズを揃えた飲食店の先駆けである。狙いは当たり、客の8割方は女性だったという。
“モツギャル”が長蛇の列、ニラが6倍に高騰
モツ鍋は、フレンチ、カフェバー、エスニック、イタ飯……と、バブル期をトレンドハンティングで楽しんだ女性たちの嗜好にジャストミートした。渋谷の公園通りは「モツ鍋ストリート」と呼ばれる密集地となり、「モツ鍋あります」と染め抜いた幟(のぼり)が林立。どの店の前にもモツギャル(と当時あだ名された)の長蛇の列ができた。あれはすごい光景だった。
ブームは家庭料理にも波及し、そのまま火にかけられるアルミ鍋入りのモツ鍋がスーパーやコンビニに並び、飛ぶように売れた。あまりの人気で材料が足りなくなって、ニラが6倍に高騰したほどだ。
こうして「ポストバブルの主役」「東京ディナーの新定番」と世間を騒がせたモツ鍋だが、ブームは長く続かなかった。1993年夏には完全に終わり、「バブルの最後の徒花」などと嘲笑されるにいたったのである。
インターナショナルになった平成の鍋料理
はかないブームではあった。だが、モツ鍋は後世に大きな影響を残した。ひとつは、内臓類に対する偏見や先入観を取り払い、日の当たる場所に引っ張り出したことだ。その後、イタリアンでトリッパ(牛の胃袋)の煮込み、焼肉でロース、カルビより格下だった内臓肉のハラミが人気メニューになったのは一例。内臓ではないが、ジビエが注目を集めたのも、「下手物」と呼ばれた食材への垣根がモツ鍋で低くなったからだろう。
なによりも最大の功績は、鍋料理の枠を広げたことである。モツ鍋にはじまった平成の鍋料理は、国際化と多様化が特徴。それまでにはなかった創作的な鍋料理が出現し、海外の鍋料理もやってきた。モツ鍋を知った日本人は、もっと新しい味、未知の組み合わせを求めるようになったのである。
1990年代に流行した鍋料理には、タイの「タイスキ」、イタリアの「バーニャ・カウダ」、中国の「火鍋」、韓国の「キムチチゲ」がある。
鍋用調味料の開発で進化が加速
このように従来にはなかった鍋料理が登場し、なかなか家では作り方が分からない、本格的な味が出しづらいという需要が、鍋つゆなど鍋用調味料の開発につながっていった。鍋用調味料の発達で、鍋料理の進化は加速することになる。
このなかで、家庭料理にもっとも浸透したのがキムチチゲだ。キムチは1999年に白菜浅漬けとたくあんを抜き、漬物の国内生産量第1位になった。2002年開催のサッカー日韓W杯と韓流ブームが後押しして韓国家庭料理への関心が高まり、いまではスンドゥブチゲ(純豆腐の辛い鍋)、カムジャタン(豚背肉とジャガイモの辛い鍋)、タッカンマリ(鶏の水炊き)といった、キムチチゲ以外の鍋料理もポピュラーになっている。
トマト鍋、塩麹鍋、豆乳鍋が創案されたのは2000年代後半。それには少なからず健康志向の高まりが関係する。野菜がたくさん食べられ、体によいとされるトマト、塩麹、豆乳の栄養成分も摂取できて一挙両得。2000年代は健康ブームが吹き荒れた時代だった。
ますます広がる鍋料理のバリエーション
2010年代、私がいちばん注目したのは、1人鍋用調味料の急激な増加と、味付けが年々豊富になってきたことである。トマト鍋の流行がきっかけで、洋風鍋料理が増えたことも特筆に値する。ブイヤベース鍋、海老のビスク鍋、レモン鍋、チーズ鍋、クラムチャウダー鍋…。さっぱり系から濃厚系まで、これでまた鍋料理のバリエーションがぐんと拡大した。
家族の団らんの象徴だった鍋料理が、1人で食べるものになったのは、少子高齢化と個食・孤食が当たり前になった時代を表す現象である。もともと鍋料理は、小鍋立てと呼ばれる江戸時代の1人鍋からはじまった。コロナ禍で多人数での会食、共食が避けられる今日、この傾向はもっと強まっていくかもしれない。だが、多様な鍋料理が簡単に、手軽に作れるようになったのは、そのさみしさを補うのにあまりある喜びだ。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】