小林健二四段、郷田四段、屋敷四段から本田四段まで 将棋界で新人四段がタイトル戦挑戦者決定戦に進んだ例
既報の通り、棋王戦挑戦者決定戦は本田奎四段(22歳)と佐々木大地五段(24)が対戦することになりました。
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デビュー1年2か月の本田奎四段(22)トップ棋士・広瀬章人竜王(32)を降して棋王戦挑戦者決定戦進出
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佐々木大地五段(24)敗者復活戦で広瀬章人八段(32)を降して棋王戦挑戦者決定戦に進出
両者ともに、トップクラスの棋士である広瀬現八段を倒しての挑決進出でした。はからずも、広瀬八段はここ最近、立て続けに後輩からの突き上げを受けた形になりました。
棋王戦ベスト4以上は、2敗失格と見ればわかりやすく理解できます。
棋王戦挑決の第1局は12月16日におこなわれます。勝者組を勝ち抜いた本田四段が勝てば、そこで渡辺明棋王(35歳)への挑戦権を獲得できます。
佐々木五段が勝てば、12月27日に第2局がおこなわれます。佐々木五段が挑戦権を獲得するためには第1局、第2局で連勝が必要となります。
四段は「タイトル挑戦」、五段は「五段昇段後タイトル挑戦」という昇段規定があり、本田四段、佐々木五段のどちらかが、初のタイトル挑戦を決めた時点で昇段できます。
四段と五段の若手による挑戦者決定戦は、過去にほとんど例がありません。本稿では、四段の挑決進出にスポットを当てて、過去の事例をたどってみたいと思います。
勝てば挑戦者、負ければ記録係
小林健二現九段は1975年12月20日、18歳で四段に昇段しています。
小林九段の師匠は板谷進九段(1940-88)。小林九段の弟弟子には杉本昌隆八段がいて、その弟子が藤井聡太七段です。
1976年。小林四段は参加1期目の王位戦では予選から参加。そして伊達康夫六段、桐山清澄八段、灘蓮照八段を連破して3連勝でリーグ入りを果たしました。
翌77年。小林四段は王位戦リーグ白組に参加。有吉道夫八段、西村一義七段、花村元司九段、森けい二八段、酒井順吉四段に5連勝して、あっという間に挑戦者決定戦に進出しました。
小林四段(当時20歳)の挑決の相手は、白組優勝の米長邦雄八段(当時34歳)。米長八段は中原誠王位(名人)のライバルで、当時のタイトル戦の常連でした。
板谷進九段は熱血の人でした。王位戦挑決に臨む弟子の小林四段に対して「負けたら記録係をやらせるぞ」と言ったそうです。つまり、挑決で敗れた場合には、王位戦七番勝負で中原王位-米長挑戦者戦の記録係を、小林四段に務めさせる、ということです。四段がタイトル戦の記録係を務めることは、さほど珍しいことではありませんが、対局者(挑戦者)と記録係とでは、立場が恐ろしく違います。
米長八段を相手に、小林四段は相矢倉で挑み、勝勢を築きます。終盤、一手勝っている局面で、米長陣に銀を打ちこんで寄せにいけば勝ちでした。しかしそこで当たりになっていた角を逃げ、受けに回ります。
当時の将棋年鑑には「痛恨の敗着」と評されている一手で、確かにそこから流れが変わったようです。現在のコンピュータ将棋ソフトで解析すると、それでもまだ小林四段優勢だったようですが、小林四段に疑問手が続いて、最後は米長八段の豪腕が炸裂する形となりました。
「負けたら記録係」という師匠の言葉は冗談ではなく、本当に実行に移されました。
「勝っていれば挑戦者、負けたので記録係」という事例は、これが空前にして、おそらくは絶後でしょう。現代の将棋界で、たとえば杉本八段が藤井七段に「王将戦の挑決で負けたら七番勝負で記録係をやらせる」と言うことはないはずです。
小林四段は後に多くの棋戦で活躍。早指し選手権で優勝し、A級にまで昇級するなどの実績を積みました。ただしタイトル挑戦は現在までのところ、実現していません。
屋敷四段(17歳)→屋敷五段(18歳)→屋敷棋聖
1989年度の将棋界で最も大きなニュースは、19歳の羽生善治竜王の誕生でした。一方でその直前、竜王戦七番勝負のさなかに、もうひとつ重要な記録が生まれています。それが屋敷伸之四段(当時17歳)の史上最年少でのタイトル挑戦記録です。
この時の棋聖戦五番勝負では、屋敷四段は2勝3敗で中原棋聖に退けられています。
当時棋聖戦は1年に2期のペースでおこなわれていました。屋敷四段は五段に昇段した後、棋聖戦で続けて挑戦権を握りました。そして名人、王座を併せ持って三冠の中原棋聖に再び挑戦します。屋敷五段は2連敗のあと3連勝。3勝2敗で将棋界の第一人者を降し、史上最年少の18歳でタイトルを獲得しています。
郷田四段(21歳)→郷田王位
郷田真隆現九段は1990年4月1日、19歳で四段に昇段しました。棋士になるのは、同世代の羽生現九段などからは少し遅れましたが、デビュー以後はすさまじい勢いでその実力を示していきます。
1992年。棋聖戦(前期)ではトーナメントを勝ち抜いた郷田真隆四段(当時21歳)と阿部隆五段(当時24歳)が挑戦者決定戦で対戦しました。この時は郷田四段が勝って、谷川浩司棋聖への挑戦権を得ました。
当時はタイトル挑戦を決めても昇段する規定はなく、前述の屋敷四段とともに、郷田四段はそのまま「四段」の肩書で棋聖戦五番勝負に登場しました。現在はタイトル挑戦で自動的に五段に昇段します。長い将棋史の中で、四段の肩書でのタイトル戦登場は「屋敷四段」「郷田四段」だけとなりました。
棋聖戦五番勝負では、郷田四段は谷川棋聖に1勝3敗で挑戦を退けられています。
おそるべきことに郷田四段はこの頃、王位戦でもリーグを勝ち抜いて挑決に進出しました。そして同世代の佐藤康光六段(当時22歳)を降して、谷川浩司王位への挑戦権を獲得しました。
王位戦七番勝負は、郷田四段が4勝2敗で制しました。四段でのタイトル獲得は、後にも先にも、この一度だけです。
若手の「登竜門」竜王戦
1987年に創設された竜王戦は、多くの若手の登竜門となりました。特に「羽生世代」と呼ばれる羽生善治現九段を中心とした黄金世代は、早い段階で竜王位を争う舞台に登場しています。
1989年の竜王戦挑戦者決定戦三番勝負は森下卓五段(23歳)と羽生善治五段(18歳)が対戦しました。両者の年齢を合わせると、わずかに41歳でした。
この三番勝負は羽生五段が2連勝で制して、六段に昇段。島朗竜王に挑んで、19歳で竜王位を獲得しました。
ちなみに、過去に竜王戦に登場した以下の棋士の誕生日は、大変に近いです。
佐藤康光 1969年10月1日
丸山忠久 1970年9月5日
羽生善治 1970年9月27日
藤井 猛 1970年9月29日
森内俊之 1970年10月10日
竜王戦が開幕するのは例年、10月の半ばです。以上の棋士はおおむね、竜王戦七番勝負が開幕する少し前に誕生日を迎え、歳を取ることになります。
1992年の竜王戦挑決は羽生善治棋王(21歳)と佐藤康光六段(22歳)が対戦。羽生棋王が勝って谷川竜王にリターンマッチを挑み、竜王復位を果たしています。
1993年の竜王戦挑決は佐藤康光六段(23歳)と森内俊之六段(22歳)が対決。佐藤六段が2連勝で挑戦権を得て七段に昇段。佐藤七段(24歳)が羽生善治竜王(23歳)に挑戦し4勝2敗で初タイトルの竜王位を獲得しています。
若手の活躍が印象に残る竜王戦ですが、一番下のクラスである6組から挑決まで勝ち進んだ例は、過去32期のうち、わずかに1度しかありません。それが1994年の行方尚史四段(当時20歳)です。
20歳の行方四段は当然ながら若いですが、もう一方の山から挑決に勝ち進んだ棋士も若かった。それが23歳の羽生善治名人(五冠)でした。20歳と23歳の挑戦者決定戦とだけ聞けば「フレッシュ対決」とそんな紋切り型のニュースヘッドラインが浮かびます。しかし23歳でも名人、五冠の立場であればもう「若手」の定義からは、はずれているかもしれません。
羽生名人は当時、七冠制覇の途上にいました。結果は行方四段の健闘及ばず、羽生名人の2連勝。大本命が佐藤康光竜王への挑戦権を得ました。
竜王戦七番勝負では24歳の羽生名人が25歳の佐藤竜王を4勝2敗で降し、1年で竜王復位を果たしました。
稲葉四段、千田四段のストッパーとなった木村八段
若くして強かった羽生世代は、そのままスライドして活躍を続け、新しく登場する若手棋士の大きな壁となりました。その分だけ、新人がいきなり挑決まで勝ち進むような例は減りました。
そうした中で、2009年の棋聖戦では稲葉陽四段(当時20歳)が勝ち進み、挑決にまで進出しました。対戦したのは木村一基八段(当時35歳)。稲葉四段の快進撃は、最後は木村八段に止められた形となりました。
また2014年の王位戦では、千田翔太四段(当時20歳)が挑決に進出。対してここでも木村八段(当時40歳)がストッパーとなり、新人のタイトル挑戦は阻まれました。
若手棋士の壁となった木村八段ですが、タイトル戦の番勝負では、年長で巨大な壁であり続けた羽生現九段に押し返され続けました。
そして今年2019年。現代将棋界のトップ棋士である豊島将之王位(現竜王・名人)から王位を奪取したのは、記憶に新しいところです。
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