田中文科相は文科省を解体できるか!?
■既存大学の既得権益を守るだけなのか
田中眞紀子文部科学相(文科相)は、てっとりばやく話題になることだけを狙ったのかもしれない。それが目的なら、マスコミも大騒ぎしているのだから成功した、といえる。しかし日本の教育行政は変わらないし、その貧困さをさらけだしただけのことになりかねない。
10月2日、田中真文科相は大学設置・学校法人審議会が来春の開学認可を答申していた秋田公立美術大、札幌保健医療大、岡崎女子大の3大学を不認可とした。寝耳に水の大臣判断に大学側は困惑し、進学予定者の道を閉ざす行為だとマスコミはいっせいに攻撃している。
田中文科相は不認可の理由を、日本の大学が800以上もあり過剰で、教育の質が低下していることをあげた。しかし、数だけを減らしたからといって教育の質があがるわけではない。しかも現在の質の問題は、既存の大学に原因がある。ここを変えないことには、質が変わるわけがないのだ。
新設予定の大学を不認可にしたからといって、既存の大学の質があがるわけがない。むしろ、質の良い大学をどんどんつくって、質の悪い大学を廃校に追い込んだほうが、よほど全体の質をあげることにつながる。その意味で、田中文科相の判断には大いに疑問がある。
田中文科相が不認可とした大学が既存の大学を駆逐するほど質が高いかどうかという話は別にして、新しい大学を認めないことは現在の教育の質をあげることにならない。「低い」という現在の大学の質を維持し、既存大学の既得権益を守るだけのことである。田中文科相の説明とは逆のことになってしまうのだ。
■不認可は文科省批判である
それでも、文科省改革の糸口にしようという意図をもっての田中文科相の判断なら、まだ評価できるのかもしれない。不認可の判断は、文科省批判にほかならないからだ。
新設予定の大学は大学側が勝手に開学準備をしてきたわけではない。大学設置・学校法人審議会が来春の開学認可を答申するまでには、文部科学省(文科省)と綿密すぎるくらいの相談をしながらやってきている。
だから田中文科相の判断は、「文科省が決めたこと」の全否定にほかならない。これを糸口に文科省改革を大胆にすすめるのなら、鮮やかな先制攻撃だ。
そもそも日本の教育の質が低いのは文科省に責任がある。たとえば「詰め込み教育」が批判されて、もちだされてきた「ゆとり教育」だ。
詰め込みではなく質のある教育を目指して提唱されたのが「ゆとり教育」だったはずなのだが、「ゆとり」という言葉だけに引きずられて授業時間を減らして「勉強させない」という方向へ突っ走ってしまった。それが「学力低下」につながったと批判されれば、授業時間を増やし、再び詰め込み教育にもどりつつある。質は淋しいままだし、何をやりたいのか理解に苦しむ。
そういう動きを先導しているのが、文科省である。つまり、文科省にまかせておいては教育の質があがるなど期待できない。大学もふくめて質の高い教育を求めるなら、いまの文科省にまかせておくわけにはいかないのだ。
だから、不認可問題から文科省批判を展開し、文科省改革、文科省解体までやろうとして田中文科相が不認可を判断したのなら評価できるし、期待もできる。
■文科相に期待できるのか
ただし、田中文科相の判断が文科省改革につながっていくのを期待するのは、無理な話かもしれない。田中文科相が、そこまで考えて不認可を判断したともおもえない。
だいいち、文科省改革をやるには田中文科相には時間がなさすぎる。衆議院の解散・総選挙が年内にも行われる可能性もいわれるなか、田中文科相の任期は限られているからだ。
その短い時間で文科省の根幹まで揺さぶるなど無理な話というしかない。文科省の役人にしても、自らに突きつけられた白刃という危機感は薄いはずだ。田中文科相が去ってくれるのは待っていればいい、くらいの認識しかないかもしれない。
田中文科相の不認可判断が、ただの思いつき、話題性だけを狙ってのことなら、お粗末というしかない。混乱を招いただけのことでしかない。
しかし文科省を解体するくらいの改革につなげ、日本の教育を根本から改めようとの意図ならば、尻切れトンボ状態で話を終わらせるのではなく、田中文科相はきっちりとその道筋を示すべきである。短い任期とはいえ、その糸口だけでも示してほしいものだ。そういう意思と戦略が田中文科相にあればのことだが・・・・。