【戦国こぼれ話】天正遣欧使節の千々石ミゲルらは、ポルトガル人商人による日本人の人身売買を容認していた
最近、千々石ミゲルの遺骨が発見され、大きな話題となっている。ところで、千々石ミゲルがポルトガル人商人による日本人の人身売買を容認していたことをご存じだろうか。
■天正遣欧使節の派遣
天正10年(1582)、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信のキリシタン大名は、少年の使節団をローマ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。正使の伊東マンショと千々石ミゲル、副使の原マルチノと中浦ジュリアンの計4名である。
彼らは無事に目的を果たしたものの、渡航中に見掛けたのは、同胞たる日本人がポルトガル人商人によって、売買されるという現実だった。彼らはこの光景を目の当たりにして、どう思ったのだろうか。
■ミゲルの意見
ミゲルは日本人奴隷について、次のように感想を述べた(以下の彼らの会話は、エドウアルド・サンデ『日本使節羅馬教皇廷派遣及欧羅巴及前歴程見聞対話録』より)。
日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。そのうえ、われわれが旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。わが民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった。
つまり、ミゲルはヨーロッパの人々=文明人、日本人=野蛮人とみなしていたことに注意すべきだろう。
■マルチノの意見
原マルチノもミゲルの言葉に同意し、次のような興味深い見解を示した。
ただ日本人がポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢できる。というのも、ポルトガル人は奴隷に対して慈悲深く親切であり、彼ら(=奴隷となった日本人)にキリスト教の戒律を教え込んでくれるからだ。しかし、日本人奴隷が偽の宗教を信奉する劣等な民族が住む国で、野蛮な色の黒い人間の間で奴隷の勤めをするのはもとより、虚偽の迷妄を吹き込まれるのは忍びがたいものがある。
日本人が同じ奴隷になるのならば、異教徒の国ではなく、キリスト教国のポルトガルなら許容できるという理屈である。マルチノらの価値判断の基準は、キリスト教の信仰にあった。
■日本人が悪いのか
さらに、次のような指摘もあった。日本では、もともと人身売買が不徳とされていたが、日本人はその罪をパードレ(司祭)やポルトガル商人になすりつけた。
それは、欲張りなポルトガル人商人が日本人奴隷を買い、パードレ(司祭)はこれを止めようともしないということである。
この指摘に対して、ミゲルは次のような見解を示した。
ポルトガル人には、いささかの罪もない。彼らは何と言っても商人である。利益を見込んで日本人奴隷を購入し、その後、インドやそのほかの国々で彼ら日本人奴隷を売って金儲けをするからといって、彼らを責めるのは当たらない。とすれば、罪は日本人のほうにあるのであって、普通なら大事に育てなければならない子供が、わずかな対価で母の懐からひきはなされいくのを、あれほどことなげに見ることができる人々なのだ。
ミゲルは、ポルトガル商人が商売として、日本人奴隷を売買するのは当然のことであって、まったく悪くないという見解を示した。むしろ、罪深いのは、子供をわずかな金銭でポルトガル商人に売り渡す日本人にあるという。
気に掛かるのは、ミゲルの「奴隷を売る日本人が悪い」という考え方は、ポルトガル側の意向を汲んだかのような発言である点だ。違った言い方をすれば、彼らの考えに感化されたような印象を受ける。
■まとめ
以上の彼らの会話のやりとりを要約すれば、次のようになろう。
①日本人が奴隷として売られても、ポルトガルでキリスト教の正しい教えを受け、導かれるのならば容認できる。しかし、日本人奴隷が異教徒の国で邪教を吹き込まれることは認めがたい。
②日本人が奴隷になるのは、人道的、倫理的に劣る日本人が悪い。ポルトガル商人は商売として人身売買に携わっているので、何ら非難されることはない。
天正遣欧使節の面々は、ヨーロッパの人々やキリスト教の教えに感化され、不道徳な日本人の非人道的な考え方を嫌うようになった。
逆に言えば、野蛮人である日本人が高い道徳性なりを身に付け、まっとうな人間になるには、キリスト教を信仰するよりほかはないと思ったのかもしれない。
その後、天正遣欧使節の面々はどうなったのだろうか。伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンの三人は、その後もキリスト教の勉強を続け、司祭の地位に就いた。
なお、千々石ミゲルはただ一人だけ棄教の道を選択し、のちに大村藩の藩士として仕えたのである(没年不詳)。