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君は『KANO』を見たか? そして、泣いたか?

楊順行スポーツライター
左は31年夏の嘉農メンバー、右は35年春

5年前、91歳で他界した父が、大昔にときどき話してくれたことがある。

「嘉義農林というチームが強くてのぉ。甲子園で、活躍したんだ」

なにしろまだ幼かったから僕は、さして興味も持たずに聞き流していた。

シネコンなどで大々的に、というわけではないけれど、いま、『KANO〜1931海の向こうの甲子園〜』という台湾制作の映画がつつましく上映され、静かな人気を博している。KANOとは、嘉義農林の愛称だ。

かつて大日本帝国の統治時代、満州、台湾、朝鮮からも、代表校が甲子園に出場していた。当時台湾大会で優勝し、代表になるのは、日本人だけで構成された台北一中や、台北商がほとんど。だが29年、近藤兵太郎監督が就任した嘉農は、スパルタ訓練で徐々に力をつける。守備のうまい日本人、打力のある漢人、足の速い高砂族の選手たちによる、バランスのいいチームに育っていった。

すると、31年。それまで、全島大会で未勝利だった嘉農が台北一中をまず初戦で破り、決勝では台北商に11対10。甲子園出場を果たす。そこでの活躍ぶりは、実話に基づいた映画をお楽しみに。ちなみに、決勝で敗れた相手がこの31年から夏の3連覇を果たす中京商(現中京大中京)である。

KANOのモデルには、父の幼友達がいたかも

で、思い出話だ。父は1918年生まれで嘉義に育ち、嘉義中に進んだ。つまり、映画のモデルになった選手たちはほぼ同年代で、もしかしたら近所の顔見知りもいたことだろう。だからいまなら、あれほど熱っぽく語っていた心情がわかる。

父の没後、骨を故郷に戻そうと、嘉義を訪れたときのこと。嘉義農林(現国立嘉義大学)に足を運び、夕刻には親類縁者と会食しながら、そのうちの長老格がおっしゃる。

「あんたのお父さんの叔父さんが、甲子園に出ていたんだよ」(統治時代の名残で、年配者はいまでも日本語を話せる)

ん? そんな話、父からは聞いたことがないぞ。詳しく確認すると、父の叔父たる人は、僕から見た祖父の年の離れた弟で、年齢では父より下(かつての大家族時代は、よくありました)。33年夏、35年春に甲子園に行っているらしい。帰国後に資料をひっくり返すと、確かに「楊元雄」という名前があった。

いやいや、父が存命のうちに、もっと話を聞いておけばよかった。まして子どものころはまさか、高校野球の取材をするなんて思ってもいなかったからなぁ。嘉農の31年当時、どんな思いでラジオの野球中継を聞いていたのか。選手のなかに、近所の遊び仲間はいたのか。自分は野球をしていたのか、そして楊元雄はどんな人だったか……。

そういえばそもそも父は、我が家は客家だともポツリともらしもした。かえすがえすも、もっと話しておけばよかったと悔やまれる。NHKの『ファミリー・ヒストリー』あたりが、調べてくれないかなぁ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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