今季最強の寒気襲来 121年前の1月25日は旭川で−41度を記録 八甲田山の遭難も
日本の最低気温-41.0度が出た日
今から121年前の1902年(明治35)1月25日、北海道旭川でー41.0度という低温を記録しました。これが今日まで残る日本の最低気温の記録です。
実はこの日、青森県・八甲田山のふもとで、当時の「旧陸軍青森歩兵第五連隊」が、冬季軍事訓練をしていました。なぜこの時期に雪山での訓練なのかというと、軍部はロシアとの戦争が避けられないと考えていて、厳寒地での戦いの準備をしていたのです。実際にその2年後の1904年(明治37)日露戦争が始まります。
この第五連隊は、当初出発したその日(1月23日)のうちに、青森から20キロほど離れた目的地の田代温泉場に着く予定でした。出発当日の朝は薄曇りで風速1.3メートル。天候が良ければ若い軍人の集団ですから、なんの問題も無かったでしょう。ところが、行軍を始めると少しずつ天候は悪化し、田代温泉場にあと数キロというところで日が暮れて闇夜になってしまいました。そこでやむなく野営をするのですが天候は回復せず、連隊は明け方を待たずに出発地の青森に戻ることにしました。しかしながら、その後も雪はますます激しくなり、夜が明けても自分達がどこにいるのか分からない状態になってしまったのです。いわゆるホワイトアウトです。
当日の天気図を見ると、青森付近を通る線に762(約1016hPa)と読み取れます。また新潟付近を通る線は765(約1020hPa)となっています。この数字は当時の水銀柱気圧計の値で、現在の表示にすると青森と新潟の間で4ヘクトパスカルくらいの気圧差があったことが分かります。また、破線は気温を表しており、100が摂氏0度を表します。つまり北海道の内陸部はこの時間で-35度以下だったと推測されます。(東京は-5度)
この強い冬型の気圧配置と低温によって、訓練参加者210名のうち199名が遭難してしまいました。
リングワンダリング
青森歩兵第五連隊が道に迷ったのには理由があります。人間は視界などによる方向感覚を失うと、自分の利き足などに左右され、知らぬ間に円を描くように歩行をすることが知られています。これをリングワンダリングと言います。八甲田山遭難の多くの死者は直径500メートルほどの楕円の中に集中しており、行軍全体がこのリングワンダリングに吞み込まれたことを示しています。
この現象は現在でも、暴風雪に巻き込まれたときには起こり得ることです。2013年3月に起きた北海道・湧別町の暴風雪から娘を守った父親の事故も、このリングワンダリングだったと推測されています。
近年最強の寒気
くしくも121年前の猛烈寒波と同じ日にやってくることとなりそうな、1月24日から25日にかけての寒気。これは、近年ではめったに無い強さです。
地上の気温に影響があり、テレビで「雪の目安」とよく言われている上空1500メートルで-6度の寒気が北緯30度(奄美大島付近)よりさらに南まで南下し、本州付近は−12度という非常に強い寒気に覆われます。
八甲田山の遭難があった当時、青森では最高気温が−8度までしか上がりませんでした。現在でも「低い最高気温」のランクに残っているほどです。今回、青森では25日の最高気温が−6度の予想ですが、その他の地域も真冬日(最高気温が0度未満)になる地点が続出すると予想されます。
そして、われわれ気象関係者がもうひとつ注目するのが、上空約5000メートルの寒気です。この高さの気温は雪雲を発達させる目安であり、−36度の寒気がかかってくると大雪になりやすいことが知られています。今回、その−36度の寒気が山陰地方から東海、関東南部にかけて、さらには-42度という、豪雪地帯でも大雪に警戒が必要な強さの寒気が北陸にまで下りてくる予想となっています。
これらの先端部にあたる日本海側の地域を中心に短い時間に大雪、また猛吹雪になるところも出てくるでしょう。
同じ程度の寒気が流れ込んだ過去には、東京など関東でも雪が降ったり、八丈島で積雪になったこともありました。今回もめったに無い現象が起こる可能性があります。
すでに各地の気象台や国交省から大雪に対する注意喚起がなされています。大雪や極端な低温への備えを厳重にお願いします。
参考