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バルサ、クーマン監督解任の必然。アムステルダム取材で忘れられない「遺恨」

小宮良之スポーツライター・小説家
(写真:ロイター/アフロ)

クーマン監督解任の必然

 ロナウド・クーマン監督の解任は必然だった。

 10月27日、昇格組のラージョ・バジェカーノにまで敗れたことが引き金になっている。しかしクラシコで完敗し、チャンピオンズリーグでは敗退の危機。クビになる材料は揃い過ぎていた。

 そもそも、モラルが問われる指揮官だった。

 今シーズン、アトレティコ・マドリード戦では、前半30分過ぎに主将ジェラール・ピケを下げた。指揮官は、ピケがイエローカードをすでに提示されていたことを交代理由に挙げたが、有力選手に対する侮辱同然だった。一方、失点の契機を作ったニコ・ゴンサレスには配慮を欠いた。試合後の記者会見で戦犯のように語り、十代の選手をつるし上げたのだ。

 所属選手は口を閉ざしたままだったが、その代わりに”追放”された選手がクーマンの人間性をなじった。ミラレム・ピャニッチの表現など訳すことができないほどだ。

「クーマンにはいきなり、みんなと別練習を命じられた」

 バルサで栄光を浴しながら、追い出される形になったルイス・スアレスはそう回顧している。

「無論、プロフェッショナルとして監督の指示に従うべきだから、毎日嫌な顔もせず、練習をこなしたさ。それがプロサッカー選手としての自分の生き方だから。でも数年間、バルサのためにプレーしてきて、こんな扱いで最後を迎えるとは思っていなかった」

 クーマンは自己肯定感が強すぎた。結果、選手や会長に対してまで、傲慢な態度になった。メディアや関係者には、もはや軽蔑すら浮かんでいた。

 そこで筆者は思い出す。アムステルダムで経験したクーマンとの忘れらない遺恨を――。

アムステルダムでのクーマン

 筆者は図らずも、クーマンの人間性に触れたことがある。

 2003―04シーズン、スペイン、バルセロナからオランダ、アムステルダムへ、アヤックスを取材に訪れている。練習後、監督や選手にアクセスする許可も広報から得ていた。かつて欧州最強を誇ったアヤックスは、復権の兆しがあった。

 チェコ代表MFトーマス・ガラセク、オランダで売り出し中だったラファエル・ファンデルファールトなどの証言はすでに取っていたが、筆者はその理由を指揮官だったクーマンに訊いてみたかった。そこで練習後、スペイン語で思い切って話しかけた。クーマンはわずかに首を振って反応を示したが、知り合いでもない東洋人の問いに答えなかった。驚いたことに、断る声さえ発しなかったのだ。

 しかし、簡単にあきらめるわけにはいかない。タイミングが悪かった可能性もあるし、再びスペイン語でトライした。今度は完全に無視だった。三度、めげずにしつこくクーマンに話しかけた。今度はスペイン語だけではなく、英語でも呼び止めたが、一瞥もくれず、悠々とクラブハウスに戻っていった。コミュニケーションを拒絶する、その様子に呆然とした。

「大丈夫か?」

 その時、気にかけて話しかけてくれたのが、フィンランド代表のヤリ・リトマネンだった。リトマネンは当時、すでにベテランの域に達していたが、最後までピッチに残り、ボールを片付けていた。そのボールを担いで戻るところだった。

「無視されちゃって。モウリーニョも、ライカールトも、こんなことなかったのに」

 筆者はうなだれてそう愚痴った。

「監督は気難しい人だから。俺で良ければ、話をするよ」

 リトマネンは笑みを浮かべて、担いでいたボール袋を置きながら言った。スペインにいたのは1シーズンだっただけに、決して流ちょうなスペイン語ではなかったが、できるだけ克明にチーム状況を説明してくれた。その寛大さに感謝したのを覚えている。

当時の誌面
当時の誌面

アヤックスを取材した原稿
アヤックスを取材した原稿

指揮官の条件

 どうにかリトマネンの取材ができたが、筆者の気持ちは収まらなかった。それに気づいた現地の記者が声をかけてきた。

「クーマンはああいう人だよ。気にするな。『人種差別主義者だ』なんて言う人もいるけど、機嫌が悪いときは誰とも口もきかない。機嫌が良くても、口は悪いし、偉そうに見える(笑)」

 そう慰めてもらった。素直に感謝した。しかし当時は若かったので、忸怩たる思いが残ったことを覚えている。

 誠意と熱意だけで、海外取材では突破口がつかめる。

 筆者が取材した、ジョゼ・モウリーニョ、ジョゼップ・グアルディオラ、フランク・ライカールト、ベニート・フローロとビッグクラブを率いたリーダーたちはその点、寛大だった。指導者として人を束ねる時、その度量を見せる必要があるからだろう。彼らは真摯に熱意を持って向き合った時、聞く耳を持っていた。組織を束ねるものとして、人を無下に扱わなかった。

 例えば、デポルティボ・ラコルーニャで伝説的なチームを作ったハビエル・イルレタは何年かぶりに会うと「髪型を変えたな!」とインタビュー前に快活な声で言った。それは巧妙な会話のテクニックの一つだろう。髪型は数年ぶりに会えば、同じであっても必ず変わっている。しかし言われたほうは、「覚えていてくれた」という気持ちになるし、たとえそのトリックが分かっても、その場が和やかになる。

<何気ない言葉のやりとりで、麾下選手の心を取る>

 それがビッグクラブを率いる指揮官の資質だ。

人の気持ちを考えない

 クーマンは優れたサッカー選手だったし、監督としても優秀なのかもしれないが、根本となる資質がない。

 2007-08シーズンに率いたバレンシア時代も、クーマンの評判は最悪だった。

「就任5か月でチームを完全にぶち壊した。最後は選手に対し、別れの挨拶すらしなかった。悪い監督の典型。人間的にノーグッドだ」

 当時、バレンシアでプレーしていたホアキン・サンチェスは断言している。底抜けに明るい性格で、誰にでも好かれるタイプのホアキンが、怒りと憎しみを滲ませていた。

 その心情は理解できる。

「ホアキンは3000万ユーロ(39億円)で獲得した選手だが、30ユーロ(3900円)の価値しかなかった。彼の関心は夕食で5,6本のいいワインが揃っているかどうかだけ」

 クーマンはそう吐き捨てていた。傲然と人を見下ろし、選手の心情を汲まない。リーダー失格だ。

「いつかクーマンがバルサの監督になることを願っている。きっとトラブルになる。そうなったら、リーガの争いは拮抗するね」

 当時、主将でありながら排除されたダビド・アルベルダは皮肉っていたが、それは予言だったのか。現在、クーマンが率いたバルサは9位に低迷。リーガはかつてないほど、群雄割拠の様相を呈する。

 クーマンは歯に衣着せぬ発言というよりも、絶対的に自分が正しいと考えているのだろう。

「プレー自体が問題ではない。ゴールできなかったことが問題」

 ラージョに敗れた後も、自己弁護するように言った。しかしセルジーニョ・デストのFWコンバートも、スアレスを放出してのルーク・デ・ヨングの獲得も、すべて彼の判断だ。

 人を不快にさせ、侮辱に近い言動を平然と発する。どれだけ正論でも、そんなリーダーがバルサで認められるはずはなかった。いや、どこへ行っても厳しい結末だろう。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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