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[高校野球]あの夏の記憶/清原3三振から4カ月後の渡辺智男は…… その1

楊順行スポーツライター
1985年センバツ、初出場優勝した伊野商のエース・渡辺智男(写真:岡沢克郎/アフロ)

 海に行こうか、それとも釣りか。免許を取るのもいいな……。高校3年の夏、最後の試合に敗れて部活が終わり、友人たちとそんな話をするのは、野球部に限らず"部活あるある"だろう。

 1985年。センバツを制したのは、初出場の伊野商(高知)だった。エースは、渡辺智男(元西武ほか)。だがセンバツから帰ると腰痛に背筋痛を併発し、本格的な投球を再開したのは7月に入ってからだった。その年の高知では、中山裕章(元中日ほか)がエースの高知商が春の四国を制し、ほかにも明徳義塾には山本誠(元オリックス)がいて、夏の伊野商は伏兵扱いだった。それでも、センバツ優勝校の意地か。決勝に進出し、対戦したのは高知商だった。7回までは、1対0とリード。だが8回裏に5点を失って敗れた。それでも、渡辺はさばさばと振り返った。

「7回までリードして、甲子園を少し意識したかもしれません。ただもともと、甲子園を目ざす人間が集まったようなチームじゃなく、高知県で勝つことが目標でした。それを通り越してセンバツで優勝までしたので、もう、やり尽くした感がありましたね。自分たちが出ないんであれば、甲子園には興味がなくて……」

 それでもその夏、テレビで唯一見た試合がある。準々決勝の、PL学園(大阪)対高知商の一戦だ。自分たちが敗れた中山が、あのPL打線をどこまで抑えるかに興味があったからだ。試合中盤。中山の150キロ近いストレートを、清原和博(元オリックスほか)が左中間中段まで運んだ特大の一発には目を見張った。この試合、中山から6点を奪って勝利したPLが、その後結局優勝したと聞いても、驚きもしなかった。

 PLといえば……センバツでは準決勝で対戦し、そのときは渡辺が清原から3三振を奪うなど、6安打1失点で完投勝ちを収めた。伊野商は、決勝でも帝京(東京)を降して優勝。PLのKKにとっては、5季連続で出場した甲子園のうち、たった一度、決勝に進めなかったのがこのときだ。ただ、土をつけた伊野商はその夏、あと一歩で甲子園出場に届いていない。そう。渡辺に関しては、「あの夏」というより「あの春」の記憶、としたほうが正確だろう。

タクシーでの会話

「伊野商は初出場? ピッチャーも頑張って放ってるようやけど、明日はPLやろ」

 85年4月5日、第57回センバツの準決勝前夜のことだ。準々決勝の伊野商は、同じ四国の西条(愛媛)に7対0で勝った。だがエースの渡辺は疲れがピークで、体の重さを感じていた。山中直人監督にそう訴え、紹介された西宮の治療院に出向くと、多少は肩やヒジの張りが楽になった。タクシーでの帰り道。運転手さんが、気さくに話しかけてくる。こちらの正体には気がついていないようで、山中監督がくすぐってみた。「伊野商とPLの準決勝は、どっちが勝つと思いますか?」

「う〜ん……まあ、伊野商には悪いけど、そりゃあ大差でPLやろうねぇ」

 山中監督と渡辺は、笑いをこらえるのに必死だった。

 伊野商の快進撃は、東海大浦安(千葉)との初戦から始まった。自ら先制ホームランを放った渡辺は「東の佐久間、西の清原」と称されたスラッガー・佐久間浩一にタイムリーを許したものの、6安打1失点で完投勝利。2回戦は鹿児島商工(現樟南)に5対3、準々決勝は渡辺が西条を7安打で完封した。だが……準決勝の相手はPL。桑田真澄(元巨人ほか)・清原(元オリックスほか)のKKコンビが1年の夏に優勝し、84年春夏ともに準優勝と、高校野球史上最強ともいえるチームである。KKが3年になったこのセンバツでは、集大成として春夏連覇さえ予感させる万全の試合ぶりだ。初出場の伊野商との対戦は、いわば横綱対新入幕のようなもの。タクシーの運転手さんの見方も、当然といえば当然だった。

 そもそも渡辺は、甲子園に行きたいとまなじりを決して伊野商に進んだわけじゃない。もしそのつもりがあれば、甲子園出場歴のない県立の商業高校より、当時地元では3強に数えられていた高知商、高知、明徳義塾のどこかに進むはずだ。渡辺が1年の夏には、桑田・清原の1年坊主がエースで四番というPL学園が、夏春夏の3連覇を目ざした池田(徳島)を準決勝で破り、全国制覇を遂げている。自分と同学年の1年生がどでかいことをやったのに、渡辺はそれをまるで意識しなかったという。普通の高校球児なら、なにか心に訴えてもいいはずなのに、だ。

「だいたい、甲子園のテレビ中継自体、見たことがなかったんです。たとえば野球を引退した中学3年の夏休みは、高校野球を見るどころか釣りに夢中でしたね。家の近くの仁淀川や、須崎の港まで行って釣り船に乗ったり……」

 いわば、甲子園に対してさめていたといっていい。だが、その甲子園を身近に感じるようになったのが1年秋の新チームだ。伊野商は、翌年のセンバツにつながる四国大会に進出。当時は四国からのセンバツ出場枠はおおむね4だったから、8校が出場する大会でひとつ勝てば、センバツ出場がかなり濃厚になってくる。1学年上の先輩たちが部室でそう話すのを聞き、さすがの渡辺も「そうかぁ、甲子園なのか」と初めて意識するのだ。

 初戦の相手は、丸亀(香川)。四番・ライトに抜擢された渡辺は、タイムリーを1本放ったが5対9で敗れ、センバツ出場は絶望的となった。渡辺自身、それにのちにキャプテンを務める中妻章利、笹岡輝宏と、試合に出た3人の1年生がことごとくタイムリーエラーを犯しては、勝ち目は薄い。「僕ら下級生がチャンスをフイにし、先輩たちに悪くて、泣いて謝りましたね」と渡辺はいう。

 だが、先輩たちの最後である渡辺2年の夏も、渡辺は登板しないままベスト8にとどまり、新チームがスタートすることになる。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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