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なぜ強い? バドミントン日本女子ダブルス その2

楊順行スポーツライター
2008年の全日本総合。小椋久美子(左)/潮田玲子は5連覇で有終の美を飾った(写真:アフロスポーツ)

 オグシオこと小椋久美子/潮田玲子というペアの正式結成は2002年、2人が三洋電機に入社してからだ。

 実は、それまでの日本の女子ダブルスにも強い時代があった。たとえば1971年には、当時もっとも権威のあった全英OPで高木紀子/湯木博恵が優勝。72、73年は相沢マチ子/竹中悦子がその全英を連覇し、75年にも3度目の優勝。77年には栂野尾(旧姓竹中)/植野恵美子が全英を制し、第1回の世界選手権でも優勝を飾っている。つまり、毎年のように日本勢が世界一になっていたわけだ。

 だが80年代になると、国際舞台に復帰した中国が圧倒的な力量を見せつける。さらに92年、バルセロナ五輪の正式競技になると各国ともに力を入れ、日本勢はどの種目でも、五輪に出るだけで精一杯という"十両"状態に転落してしまう。90年代では91年、陣内貴美子/森久子の全英準優勝が目立つ程度。オグシオが登場するのは、そういう時代のあとである。入社3年目の04年、全日本総合の女子複を制すると、その華やかなルックスもあって、徐々に人気者になっていく。04年のアテネ五輪出場には間に合わなかったが、05年あたりからは、国際大会でも力を発揮するようになった。

 オグシオの成長に見逃せないのが、中島慶コーチの存在だ。86年にトマス杯(男子国別団体戦)を制した中国のメンバーで、89年に来日してから複数の企業チームの指導を経て、03年から日本代表の女子ダブルスをサポートするようになった。その王国仕込みの指導が高く評価され、オグシオのいる三洋電機に招かれたのが04年で、オグシオが初めて日本一の座につくのはまさにこの年だ。いま、JOC専属でナショナルチームの専任コーチを務める中島は、来日当時を振り返る。

「来日前、日本の女子ダブルスは、中韓の相手にならないだろう、というのが正直な印象でした。ただ、実際に教えてみると、選手の資質にさほど差はないと思った。とくにオグシオには、最初に見たときから可能性を感じましたね。私のダブルス指導は、"攻め"で、とくにオグッチ(小椋)は、サービスに対する1歩目など、攻める力が優れていました」

日本伝統の粘りにプラスアルファを

 攻めに対し、"守り"はもともと、日本女子ダブルスが伝統的に得意とするところだった。92年のバルセロナ五輪に、ダブルスで出場した陣内さんによると、

「日本の我慢強い守りは、伝統でしょうね。かつては欧米勢がライバルで、体格やパワーではかないませんが、それを補ったのが粘り。単複問わず、拾って拾って相手を根負けさせるしぶとさで、全英やユーバー杯の頂点に立っていたんです。私の時代までは、そういう先輩たちが国内にいて、先輩たちに勝てれば世界でもいい勝負ができると、大きな目標になっていました。ですが、中国が国際舞台に復帰すると、守るだけの従来の日本型では、限界が見えてきたと思います」

 だからこそ、中島は"攻め"を重視したわけだ。ただ、従来のレシーブ主体スタイルでアテネ五輪に出場した吉冨桂子さんによると、「"攻めないと勝てない"といわれても、当時28歳。20歳ならともかく(笑)、ずっとやってきたスタイルはなかなか変えられなかった」。だが吉冨さんは、こんなふうにも振り返る。「ある大会で小椋とペアを組んだとき、"すごい、後ろからこれだけ打ってくれたら楽だな"と思った記憶があります」。朴ジャパンのスタートと、それにともなう指導環境の充実、そして従来の日本にはない攻撃力を持つオグシオの成長。うまくタイミングが合ったことが、そこまでの日本型から一皮むけるひとつのきっかけだっただろう。

 また08年1月には、ナショナルトレーニングセンターが完成。オグシオ人気による認知度の高まりが追い風となり、選手が属する各企業が足並みをそろえて協力するなど、日本代表が長期合宿でしのぎを削る環境も整ってきた。当時現役だった舛田は、

「日本代表は、野球でいえばメジャーリーグを目ざす者の集団。そこで日常的に150キロと対戦し、高い意識で切磋琢磨すれば、世界で通じる可能性が見えてきやすくなる」

 と振り返った。代表の合宿で、たとえば守備力に秀でた末綱聡子/前田美順と何千回もラリーをかわせば、オグシオにも、そしてほかのペアにも、粘りという日本の特長が受け渡されていく。そして単に遺伝子をコピーするだけではなく、新しい工夫や技術を習得する切磋琢磨。吉冨さんはいう。

「日本の女子ダブルスが海外で結果を出すベースには、まずディフェンスがあります。そしてそこに、どんどんプラスアルファが生まれていきました。昔は粘って相手のミスを待つだけだったのが、オグシオなら小椋の強打で決まるようになり、スエマエなら堅い守りから前田が前でつぶすようになり……」 

 その末綱と前田は、鉄壁の守備を主武器に、北京オリンピックで当時日本勢最高の4位。これを目の前で見て刺激を受けたのが、やはり同じルネサス(現再春館製薬所)の藤井瑞希/垣岩令佳だった。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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