「どうする家康」浅井長政は、なぜ盟友の織田信長を裏切ったのだろうか
大河ドラマ「どうする家康」では、浅井長政が盟友の織田信長を裏切っていた。なぜ、長政が信長から離反したのか、その理由について考えてみよう。
元亀元年(1570)4月、信長は若狭を経て、朝倉氏の領国越前へ侵攻した。その軍勢は、約3万だったと伝わっている。そもそもの目的は若狭の武藤氏を討つことだったが、本当の目的は朝倉氏を討つことで、徳川家康も援軍を送り込んでいた。
信長が越前に攻め込む際、頼りにしていたのは、北近江に基盤を置く浅井長政だった。信長の妹・お市は長政の妻となり、同盟を結んでいたので、信長は安心して越前に出陣することができたのだ。ところが、長政は信長を突如として裏切った。
長政が裏切った理由は、『浅井三代記』という後世の編纂物に書かれている。長政はお市と結婚する際、信長と「朝倉氏を疎略にしない」と約束した。しかし、信長は約束を反故にしたので、長政の父・久政が激昂し、裏切ったという。
しかし、長政が信長とそういう約束をしたという裏付け史料はなく、それまで浅井氏と朝倉氏が友好関係を結んでいたわけでもない。長政の祖父・亮政は朝倉氏に取り立てられたといわれているが、かつては敵対関係にあったことが指摘されている。
『当代記』には、越前朝倉氏が滅亡すると、北近江は交通の要衝なので、やがて浅井氏は信長に滅ぼされるかもしれないと疑い裏切ったとある。『浅井三代記』も『当代記』も後世の編纂物なので、その記述内容を鵜呑みにするわけにはいかないだろう。
信長からすれば、長政が小身の大名であり、北近江を預けておけば十分と考えていた。それゆえ、長政が裏切ったとの一報を聞き、嘘ではないかと疑ったほどである(「毛利家文書」)。一説によると、長政は信長の政治方針についていけなかったともいわれている。
同じ頃、信長は大坂本願寺と敵対していた。むしろ、長政は刻一刻と変化する政治情勢の中で、信長に与するのは不利と悟ったのだろう。信長よりも朝倉氏が有利と考え、信長とは手を切った。信長は長政が裏切らないと思っていたので、青天の霹靂だった。