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「どうする家康」非常に疑わしい、徳川家康と井伊直政の出会いの瞬間

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
彦根駅前の井伊直政公像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が井伊直政と出会う場面が描かれていた。今回は、家康が直政に出会ったときの事情について、詳しく紹介することにしよう。

 徳川家康と井伊直政との邂逅は、『井伊家伝記』に「天正3年(1575)2月、家康は初鷹野で直政とお目見えになった。早速、家康は召し抱えるとのお考えだったので、直政がお供をして城に入った」と、詳しい経緯が書かれている。

 『寛政重修諸家譜』によると、2人の出会いは天正3年2月15日と書かれている。家康が直政と会ったのは路辺つまり道端であり、事前に面会を約束したというよりも、偶然(あるいは、直政が道端で家康の通過を待っていたか)だった可能性が高い。

 『井伊家伝記』には、続けて次のように記している。

家康の御前で直政は質問されたので、父祖の由来を詳しく申し上げたところ、家康が驚いて言うには、次のとおりである。

実父の直親は家康が遠江発向の陰謀が露見したため、今川氏真が傷害におよんだため、家康のために落命した。

そこで、当時は直親の実子を取り立てるのが困難だったため、ただちに直政の松下姓を改め井伊に復姓することを命じた。

また、家康は童名「竹千代」の「千代」を直政に下され、「千代万代」とお祝いになり、「虎松」を改めて「万千代」と名乗らせた。

 家康は永禄5年(1562)の「遠州忩劇」(今川氏と国衆の抗争)を思い出し、かつての井伊家の貢献を称え、井伊家の再興を命じて万千代という童名を与えた。このあと家康は、直政に裃と3百石の知行を与えた。知行地の場所は書かれていない。

 『寛政重修諸家譜』は、このあたりの記述がさほど詳しくない。直政は家康から父祖の由来を尋ねられたので、詳しく答え、家康から井伊谷を与えられたという。こちらは逆に、石高が記されていない。

 家康と直政の出会いについては、実に謎が多い。いずれにしても共通するのは、家康が直政の才覚を一目で見抜き、家臣に加えたということになろう。とはいえ、実際に事実だったのかは疑わしく、創作である可能性が高いといえる。直政を顕彰するための逸話ではないか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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