中国人ファンが勝負を終えた羽生結弦選手にこれまで以上に賞賛を送るという「変化」
「一生懸命、頑張りました。正直、これ以上ないくらい頑張ったと思います」
2月10日、北京冬季五輪、フィギュアスケート男子シングルのフリー(FS)を終えた羽生結弦選手は4位に終わり、3大会連続でのメダル獲得とはならなかった。日本でも祈るような気持ちで見守っていたファンが多かったと思うが、隣国・中国のファンも同様だった。
昨夜、中国在住の大学生の女の子は「まだ明日のことなのに、もう私はドキドキして眠れない。羽生選手が自分の力を出し切れますように!」とSNSに書き込んでいた。
中国でも賞賛の声、続々
結果は残念ながら、多くのファンが望んでいたものではなかったが、ファンの間では、失望よりも賞賛の声のほうが圧倒的に大きかった。中国のSNSには次のようなコメントがあふれた。
「転ぶかもしれないという不安よりも、挑戦を選んだ羽生選手の姿勢に感動した!」
「メダルは重要じゃない」
「たとえどんな結果であろうと、羽生選手は私の心の中ではいつも一番です」
「成功できなくても、挑戦したことで勇気をもらった」
「転んでも最後まで一生懸命だった。ケガをせず、無事に滑り終えることができて安堵した」
1位になれなかったことよりも、羽生選手が4回転半ジャンプ(4A、クワッドアクセル)に挑戦したことや、無事に滑り終えたということに感動や勇気をもらったという中国人が多く、その声援は日本人のファンと何ら変わることがなかった。
ファンならば、こうした温かい声が出るのは当たり前ではないか、と思う人もいるかもしれないが、私は中国人ファンの「変化」を感じた。
冒頭の女の子も「羽生選手が金メダルを取れますように」ではなく「自分の力を出し切れますように」と書いていたが、従来の中国人の反応とは少し違ってきているからだ。
競争社会の中国では他人にも厳しかったが……
人口が多く、超競争社会の中国では、常にトップを目指すことを宿命づけられている人が少なくない。学問の世界でもそうだし、スポーツの世界でもそうだ。
彼らは幼い頃から、学校や親から常に「1番であれ」といわれ続け、戦っている。中国の学校のクラス分けは多くの場合、成績順だし、「高考」(中国の大学統一入試)でも1位、2位、3位は、金、銀、銅メダルのように、特別な名称で呼ばれ、4位以下とは区別して称えられる。
何でも順位がつけられ、勝てなかったら「負け」のレッテルを貼られる。
スポーツ界でも、幼い頃から才能を見出された選手は、五輪などで1位になることだけを目指して、長年スポーツ漬けの生活を送る。弱肉強食の世界で、他人を蹴落としてでも上に這い上がることが当たり前だ。
今でもそうした傾向はあるが、ここ数年、中国人のSNSを見ていると、とくにZ世代の若者の価値観は、従来とは様変わりしてきていると感じる。
他人と争うことを嫌い、他人を押しのけてまで自分が上に立つことにためらいを感じる若者が増えている。
他人と比較して勝った、負けたということよりも、自分自身が納得いくかどうか、それをすることが自分の喜びや生きがいになっているか、結果よりも努力する過程が大事だ、といったことを重視するような考え方に変わってきているのだ。
こうした価値観の変化は、自分のことだけでなく、他人に対しての反応でも見て取れる。
SNSの声に表れる若者の「変化」
昨夏の東京五輪の際、卓球混合ダブルスの決勝戦で、中国の許昕、劉詩雯選手が、日本の水谷隼、伊藤美誠選手に敗れて銀メダルとなった。
中国メディアの報道は厳しく、記者会見の席で、許・劉ペアに「大勢の国民が応援していたのに、なぜ勝てなかったのか?」などの辛辣な質問を浴びせた。
卓球王国としてのメンツが丸つぶれになり、日本に敗れたことを恥じ、彼らを責める内容の記事も多かった。
だが、予想に反して、若者を中心としたSNSの声は温かかった。
「2人は本当にすごいよ。銀メダルでも英雄だよ」「結果がどうであれ、一生懸命がんばったことが大事なんだ。もう泣かないで」などのコメントが多かったのだ。
今回の羽生選手に対する中国人ファンの温かい反応からも、彼らの価値観が日本人のようになり、変わってきていることがうかがえた。
羽生選手の真摯な生き様が、メディアを通して、日本人だけでなく、中国の若者たちにも多大な影響を与えている。