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ドラフト2018 逸材発掘! その5 法兼駿

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

 明徳義塾高といえば……1992年夏の甲子園、星稜高の松井秀喜を5打席連続敬遠したことで知られる(ただし厳密には、公式記録上は"敬遠"ではなく単なる四球)。当時社会問題にまでなり、ヒール扱いされた馬淵史郎監督だが、いまでも「勝つために、もっとも確率の高い選択をした結果。間違った作戦だとは思わない」と語る。

 そしてこれはあまり知られていないが、2012年夏の高知県大会決勝でも明徳義塾は、ある打者を6打席中5回、四球で歩かせている(うち、敬遠3)。それが功を奏したか、その試合の明徳は、延長12回サヨナラ勝ちで甲子園切符を手に。そのとき、決勝で対戦して四球攻めに遭った高知高の四番打者が、法兼駿だ。つまり馬淵監督にしてみれば、松井級の警戒だったわけだ。進学した亜細亜大では、1年春からリーグ戦に出場。椎間板ヘルニアの手術もあって、二塁の定位置獲得は3年秋だったが、そのシーズンと4年春に2季連続でベストナインを獲得すると、昨年パナソニックに入社した。

あの明徳に6打席中5四球

 すると、春先の東京スポニチ大会から二塁のレギュラーを獲得。そこで開幕2試合連続アーチを放つなど、1年目のシーズンで通算5本塁打し、本塁打王として表彰される規定の6本には届かなかったものの、昨年の最多本塁打者となった。意外である。なにしろ大学時代は通算1本塁打(しかも、ランニング本塁打)で、身長は174センチと、決して長距離砲タイプではないのだ。

 そのことを聞くと本人、

「思い切りスイングしただけなんです。"社会人では、とにかく振らないと相手投手は怖がらないし、捕手にも考えさせられない"といわれていて、そのとおりにしただけ。春先は自分のデータもないでしょうし、それがホームランにつながった」

 付け加えれば大学野球終了後、下半身や体幹をトレーニングでいじめ抜いた。体重10キロ増という筋力アップの成果が本塁打量産であり、さらに「間合いをとり、しっかりフルスイングを心がけた」ことがパワーにつながったという。ただ、試合が春秋のリーグ戦に限られる大学と違い、社会人では厳しいトーナメントが続く。さすがに一時息切れしてしまい、都市対抗本番では、2試合6打数を無安打に終わっている。法兼はいう。

「ピッチャーの球の質自体は、大学時代と比べてさほど戸惑いませんでしたが、駆け引きや経験の差ですね。もともと大学時代も、"春は打つけど、秋はよくない"と言われていたんです」

 それでも、大学4年時から夏ばて対策に取り組み、昨年は「意識的にたくさん食べ、トレーニングを積んで体のキレを落とさないようにした」。それが功を奏し、ベスト8入りした秋の日本選手権前には復調。1年目の公式戦は通算打率・340などで、ベストナインを獲得することになる。

 ただパナソニックの設立100周年にあたる今季は、都市対抗2次予選の打率が一割台、2年連続出場の本大会も4打数1安打と、決して満足のいく数字じゃない。「今季は、本塁打王表彰の6本以上という規定がなくなるので、逆に6本打ったろうかな」と笑っていたホームランも、いまだにゼロだ。明徳に5打席連続敬遠された松井秀喜は、「それだけの打者であることを証明するのが、その後のモチベーションになった」とのちに語っているが、6打席中5回歩かされた法兼は、果たして……。

のりかね・しゅん●1994年12月7日生まれ●投手●174センチ82キロ●右投左打●丸亀市立飯山中(軟式)→高知高→亜細亜大→パナソニック

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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