大学野球選手権、初出場でベスト8の宮崎産業経営大とは?
初出場でベスト8という健闘ぶりに、宮崎産業経営大(以下、産経大)の三輪正和監督は、
「夢みたい。これで新入部員がたくさんきてくれたら学校はうれしいでしょうけど、私一人でやっているので、面倒見きれるかどうか」
と語ったそうだ。思い出したのが、取材に出向いた2010年夏のことだ。10年といえば、早稲田大の斎藤佑樹がばりばり投げていたころである。宮崎名物の鶏南蛮定食をごちそうになりながら、三輪監督にじっくり話を聞いたことがある。
産経大野球部の創部は、開学した1987年。この年に監督となった三輪さんは、
「いい体、しとるねぇ。野球やってみん?」
と、キャンパスを行き交う学生たちに、手当たり次第に声をかけた。野球部員の募集のためだ。当時23歳。日向学院高(宮崎)2年の夏に甲子園の土を踏み、立教大時代は長嶋一茂の2学年上で、四番・長嶋の次を打つ五番・センターとして活躍した。指導者を志し、卒業後も大学に残って教職課程を履修しながら、練習をサポート。1年後、学校法人・大淀学園が創設する産経大野球部の監督に、という話が舞い込んだ。同法人は、宮崎中央高(現鵬翔高)も運営しているから、将来的に高校野球の指導者を視野に入れる三輪は二つ返事で引き受けた。とはいえ、自ら部員集めからスタートした大学野球の監督はちょっと例がないだろう。
自ら集めた部員9人からのスタート
初年度、なんとか集まってくれた部員は9人ぎりぎり。グラウンドは高校との共用で平日は週に3日、土日は午前中しか使えず、それ以外は駐車場で素振りをしたり、トレーニングに汗を流すのがせいぜい。練習試合をやってもらえば、ほとんどコールドゲームだった。監督としての経験もない。ただ、情熱だけはある。1期生の9人も真摯に練習し、初出場した秋の九州地区選手権大会(以下、九州大会)では、初戦敗退ながら西日本工業大に0対1と善戦している。三輪さんはいう。
「1期生が4年になった90年には、ベスト4まで進出しました。それも、優勝した鹿屋体育大に延長18回引き分け再試合という内容で、大学野球にのめり込みましたね」
産経大など宮崎の5大学が加盟するのは、九州地区連盟だ。加盟校のエリアが福岡から沖縄までと広大なため、週末ごとのリーグ戦では時間と経済的な負担が大きすぎる。そこで当時の九州大会は、28校によるトーナメント方式で優勝が争われていた(現在は福岡、長崎、大分の北部ブロックでリーグ戦、南部ブロックは熊本、宮崎、鹿児島、沖縄の代表によって決勝リーグ戦を行い、それぞれの優勝校が大学選手権に出場)。どこにでも優勝のチャンスがあるかわり、負ければその春、あるいは秋の公式戦は1試合こっきり。創部4年目の産経大は、その一発勝負でベスト4まで進出したわけだ。
その後も、「のめり込んだ」指揮官のもと、春先には宮崎にキャンプに来る強豪校の胸を借り、大型免許を取得した三輪監督がバスを運転し、積極的に遠征にも出かけるなどして、少しずつだが着実に力をたくわえる。創部丸20年の07年春には初めて準優勝し、翌年秋も準優勝と、上位の常連となった。すると、大学が地元での就職に強いこともあり、産経大で野球をやりたいという高校生も増えてくる。指導者となって甲子園の土を踏んだ産経大OBもいる。この当時でも、練習グラウンドは相変わらず高校との共用で、特待制度もなかったが、
「環境も、人材も、強豪にはかないません。でも、弱いなら弱いなりの戦い方があります。たとえばウチは、打順に関係なく全員がバントをするし、全力疾走を徹底する。そもそも、バッティング投手をしてくれる仲間のことを考えたら、凡打したからといってたらたらとは走れません。9人、ベンチ入りの25人、いや、部員全員で戦っているんです」
大学野球の魅力に、どっぷりだった三輪監督。意地悪く、そもそも高校野球の指導者になるつもりだったのでは? と聞いてみると、
「すっかり、頭から消えています」。
それから8年。宮崎地区予選で13季連続47回目の優勝を果たした産経大は、南部九州の決勝リーグで2勝1敗と、創部32年目で初めての大学選手権に出場した。そして東京ドームでの1、2回戦を突破し、準々決勝では三輪監督自らが立教大時代にプレーした神宮の地を踏みしめている。
初出場を決めたあと、久々に三輪監督にお祝いのメールをしてみた。どんな返信がくるだろうか。