【深読み「鎌倉殿の13人」】東国の諸豪族が源頼朝を棟梁と目し、結集した明快な理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、東国の豪族たちが源頼朝を源氏の棟梁と目して結集した。そのことについては、あまりにも自明すぎたので考えなかったが、改めて検討することにしよう。
■門客・家来、家人について
門客・家来、家人とは違うもので、おおむね次のように説明することができる。
①「門客」「家来」
門客とは、そもそも門下にいる食客のことで、譜代の家臣ではない家来のことを意味する。家来とは、「家礼」または「家頼」とも書き、武家や公家の主に臣従することをいう。
彼らは主君の命により、一定の役の負担を果たすだけでよかった。この場合の主従関係では、門客(あるいは家来)が主のもとから去ることも自由だったといえる。
②「累祖相伝の家人」
累祖相伝の家人とは、言葉どおり特定の家に先祖代々仕えた者を意味する。この場合は、主人に絶対的な忠誠を示さねばならず、門客(あるいは家来)のように、主のもとから自由に去ることができなかった。
つまり、頼朝には源氏に累代にわたって仕えた家人もいれば、そうでない豪族もいたといえる。後者の豪族があえて、流人だった頼朝に身を投じたのには、何らかの理由があったはずである。
■頼朝は清和源氏の末裔か
もう一つ重要なことは、頼朝は清和源氏の末裔であるかということである。清和源氏とは、清和天皇(850~881)の流れを汲み、源姓を名乗った一族のことである。応和元年(961)に源姓を下賜された、経基がその祖とされている。
しかし、源氏は決して清和源氏だけでなく、子孫が各地に土着して繁栄した。信濃源氏、美濃源氏、尾張源氏、三河源氏、河内源氏、摂津源氏、大和源氏、多田源氏、甲斐源氏などは、その代表だろう。
頼朝の先祖・頼信(1010~76)は河内国石川郡に本拠を定め、河内源氏と称した。その子孫の頼義・義家父子は、前九年の役などで活躍し、武門の家として知られるようになった。頼朝の家系は、厳密にいえば河内源氏の流れを汲むのである(もとをたどれば清和源氏)。
では、源氏全体を統括する棟梁のようなものがいたのかといえば、決してそんなことはない。彼ら源氏はそれぞれが京都の公家に仕えたり、各自の本拠で独自に発展したのである。
■頼朝に結集した原理
大河ドラマを見ていると、頼朝に結集する東国の豪族もいれば、平氏政権に与同する豪族も存在したことがわかる。
ただ、決してすべての豪族が頼朝を支持し、喜んで従ったわけではない。彼ら豪族のすべてが、源氏に累代仕えた家人ではなかったことにも注意すべきだろう。
頼朝に従った豪族のなかには、平氏政権に従っても先が見えないと考えた者もいた。千葉氏、三浦氏、北条氏などは、その代表だろう。
頼朝は彼らの事情を理解したうえで、利害関係などを調整する役割を果たそうとした。こうして頼朝は、東国の豪族の組織化に成功したといえよう。
とはいえ、頼朝と彼ら豪族との関係は、先述した「門客」「家来」程度にすぎなかった。そこで、頼朝はあたかも彼らを累代の家人とみなし、自身がその統合の象徴になろうとしたのである。
頼朝が単なる流人であったとしても、その先祖が武門を誇っていたのだから、豪族を統合する存在になりえたと考えられる。
■むすび
当時の諸豪族は、頼朝が貴種だったからという理由だけで、挙兵の際に喜んで参上したとはいいがたい。
豪族たちは頼朝のもとに結集し、平氏を打倒することによって、自らの利益が実現すると考えたのだろう。決して、豪族たちはお人好しの集団ではなかったのだ。
【主要参考文献】
野口実『武家棟梁の条件 中世武士を見なおす』(中公新書、1994年)ほか。