「逃げ上手の若君」に登場する倒幕の立役者となった新田義貞とは
週刊少年ジャンプに連載されている松井優征さんの「逃げ上手の若君」がアニメ化されるが、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだのが新田義貞である。義貞とは、どんな人物なのだろうか。
新田氏の先祖は、清和源氏の源義家の孫・義重(1114?~1202)である。つまり、ライバルだった足利尊氏とは同じ家系である。
義重は上野国新田荘(群馬県太田市など)を領し、やがて新田を名字にした。新田荘は、現在の群馬県太田市およびその周辺地域に広がる広大な荘園だった。
義重も足利氏と同じく、鎌倉幕府の成立後は御家人となったものの、将軍や執権の北条氏と折り合いが悪く、幕府内では冷遇されたといわれている。足利氏とは対照的な処遇だった。
しかし、一族は大いに繁栄し、新田氏の庶流としては、岩松、世良田、脇屋、山名、里見、大井田、鳥山などの各氏が知られている。中でも山名氏は、南北朝期以降は守護や侍所所司を務めることになった。
義貞が誕生したのは、正安3年(1301)のことである。父は朝氏(朝兼)(1274~1318)、母は不詳である。父の朝氏は史料が乏しく、影が薄い人物だった。
もともと義貞は、鎌倉幕府に与同していた。後醍醐天皇が元弘の変で倒幕を画策すると、ただちに後醍醐方の楠木正成が籠る千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村)の攻撃軍に加わった。
義貞が倒幕のため生品神社(群馬県太田市)で挙兵したのは、元弘3年(1333)5月のことである。それは、護良親王の「打倒鎌倉幕府、北条氏」の檄を飛ばした令旨に応じたものだった。
義貞は新田氏一族や諸将を動員し、尊氏の子・千寿王(義詮)を擁して、鎌倉に攻め込んだ。こうして鎌倉幕府は、あっけなく滅亡したのである。義貞は、鎌倉幕府滅亡の立役者だったのだ。
戦後、義貞は後醍醐天皇から従四位上の官位と左兵衛佐を与えられ、あわせて越後・上野の国司にも任じられたのである。これで、義貞は尊氏と並びうる存在になった。